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光が強ければ強いほど、影も濃くなる。

新しい年になって11日目。次から次へと苦難の連続のここ数か月。
昨夜は、mac book proのデスクトップからデータが消えて、復元せず…ということが起きる。これだけいろいろ続くと、本当に壊れそうだな…。
冬休みに入って17日目。昨夜の記事にかなりの「スキ」がつく。驚く。いつもは10ぐらいなのに。フォローされていない人からも「スキ」があったのだけれど、note、どういう仕組みで、ボクの記事が他の人のウォールに流れてくんだろう…。よくわかりません。

さて、その記事とも関連するのだけれど、このツイート。

誰かにとって光となる言葉は、誰かにとって影をうむ言葉になる」という意味なので、昨日の記事に関連しているのだが、そもそも、以前から学級づくりにおける「光と影」についてはよく考えていた。

ボクらの仕事には、子どもたちに光をあてるという側面があると思う。
可能性を引き出すとか、その子のよさを表面化させるとか、その子に対するまわりの評価を変えるとか、いろいろあると思う。

若いころは、光をあてて活躍する子たち、高まる子たちを見て、得意気になっていた。だから、どんどん光を強くしていった。
でも、経験を重ねていくと、その光にあてられているところ以外も見えてくるようになる。それが見えた時、愕然とした。本当に愕然とした。

光があたるところには、必ず影ができる。そして、光が強ければ強いほど、影も濃くなるのだ。

蛍光灯のような光は、一瞬にしてクラス全体を明るくすることができる。しかも、影もそれほど見えない。

でも、ボクは、そんな蛍光灯のような自分で、子どもたちと向き合いたくなかった。影ができるとしても、子どもたち一人一人に光をあてていけるような向き合い方がしたかった。

ボクにとっての大事なこと。それは、光をあてている時には、影ができていると自覚すること。光が強ければ強いほど、影も濃くなると理解すること。それでもなお、子どもたちに光をあてていきたいと思うこと。

あらためて昨日の記事について。

昨日の記事についてある方とやり取りをしていた時、こんな話題になった。本当にその通りだなと思う。

ある言葉にしても、ある実践にしても、それを光だと感じる人が多ければ多いほど、影を感じている人は、孤独を必要以上に感じてしまう。
ある働きかけにしても、ある取組にしても、それを光だと感じる子どもが多ければ、影を感じている子どもは、孤独を必要以上に感じてしまう。
大事な視点だと思う。

今日のアルバム。
今日は天気が良かった。ずっとこのアルバム、この歌を聴きながら、青空を眺めてた。いろんなことを考えながら。

「はじめましてそしてさよなら
 涙がこぼれ光がこぼれる
 それからのYES」

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