【エッセイ】 羽化にはうってつけの日
その春、わたしはみずからは何者なのか、と問いかけ、答えようとして、困るような気のする自分のいることにふと気がついた。それまで自分のうちにあった、詩人、創作家、元書店員、社会不適合者……それらの呼称の数々からいつのまにか遠のいているわたしに、わたしはふと気がついた。
すべてのきっかけは、振りかえってみれば単純である。再就職が決まったのだ。
さまざまな事情から前職を辞してしばらくが過ぎ、ようやく転職活動を始めたのは、三寒四温、というにはいささか落差の激しい気温の動きと共に、冬が去りはじめようとする頃だった。何しろ前の就職活動には嫌な思い出しかなく、面接に纏わる記憶に至ってはほとんどトラウマのような有様になっていたので、新たな職探しも何くれと理由をつけては後へ後へと先延ばしにしていた。はっきり言って、どうせまた落とされつづけるのだろうという暗鬱で、悲観的な展望のみがわたしの胸のうちを占めていた。
だというのにいざやりはじめてみれば、わたしは自分でも驚くほどに活発に転職活動をこなしていた。昇給、昇進、マネジメント、キャリアプラン……これまでの人生でとんと無縁だった、あるいはときおり触れても、やはり暗澹とした気分しかもたらさなかったような言葉の数々を、わたしは次々にまな板に載せていった。結果としてそちらへの道へは行かなかった(というより行けなかった)ものの、ついにはコンサルタントなどという語さえ口走ったものである。
途中からは、いささか面白くさえなっていた。これまでのわたしからは離れたようなわたしを、どんどんと作り上げていく。どんどんとわたしから逃れていく。
結果的にはこれまでの筋道から大きく逸れることもないようなところへと着地はしたものの、ようやくひと段落がつき、いよいよ刻限というものの定まった余暇を手にして、さてどうしようか、と。みずからを振りかえってみれば、そこには何やら、見たことのない「わたし」の欠片があるらしかった。まだ、形も定まらない。地べたに落とされて割れた陶器のように、中途半端な姿をしている。硬く冷たい。真っ白で、何の紋様も、表情も、描かれてはいない。
ところで、その慌ただしい日々がある程度落ち着きを見せはじめた頃には、この春に絶対に見に行こう、と心に決めていた展示が、次々と会期を終えようとしていた。中平卓馬『火—氾濫』(国立近代美術館)、安井仲治『僕の大切な写真』(東京ステーションギャラリー)、それから『シュルレアリスムと日本』(板橋美術館)。
四月に入ってから、三つの展示をわたしは立て続けに訪れていった。そのどれもが鮮やかだった。世界を描きだすことそのものへの、自由な喜びがあるようだった。あるいは見るものの輪郭をそっと焼き払っていくような、あるいは意味が生まれるよりも手前の境域を、あるいは認識の力が綻んでいくその一歩先の風景を、否応なしに覗きこませてしまうな。
あまりに、美しかった。胸に満ちた光や、情動を、なにかしらの言葉として留めたい、と。間髪空けずに考えてしまうのは、もはや性分のようなものだった。三月末に小説をひとつ書きあげてからはこれといった創作活動もしておらず、少し落ち着かないような気持ちにもなりつつあるところだった。これらの展示から得たインスピレーションを、何かしらの構想に活かせはしないか……。
されどもその望みは叶わなかった。意識の奥底にまで差し入るようだったそれらの風景から何がしかの言葉を汲みだそうとしても、それは汲みだしたさきから嘘らしくなっていく。というより、言葉そのものの本質としての恣意性が、それらの存在の前では否応なしに照らしだされてしまうようだった。ひとたびは記憶を失くした写真家が、みずからの輪郭を手繰りなおすようにして撮りつづけた、どこかトラウマめいた情景たち。さまざまな実験を重ねた黎明期の写真家の、ささやかな物事をもじっと凝視しつづける、そのまなざし。無意識の混乱のうちから筆と絵具によって掴みだされた、ある心の真実。
そこでは意味を与えるということ、それ自体がつよく拒まれているかのようだった。そしてそれらの作品群を前に、わたしはただ立ち尽くすばかりだった。
まるで、焼かれているようだった。この急激に明るくなりゆく初春の日差しのなかで、わたしの言葉は、わたしというもの輪郭は、静かに、静かに焼かれているようだった。
このひと月あまりで、わたしの世界は大いに変わった。思いがけない形で書き始めた小説が、思いがけないほどに満足のいくものとなり、旅行に出た先でみずからの呼吸を取り戻すような体験にふれ、そしてついにはけして敵わないだろうと長らく思いつめていた、転職が叶った。世界に、ようやくうべなわれたようだった。しかしうべなわれたさきの世界の歩み方が、わたしには分からない。その世界で、なおもありうる言葉が、わたしにはまだ分からない。
わたしの人生は、否定と自傷に満ちている。それを創作の原動力にしていたことは、どうしたって否めない。否定を重ねつづけたさきの最後の希望、けして理性をもってしては触れえない、認識の破綻したさきの世界への憧れ。鬱屈と自責に囲われた狭苦しい心の部屋の、小さな小さな明り取り窓から、それらの夢を眺めること、それこそがきっとこれまでのわたしの、言葉だった。
だがいま、わたしはおそらくそこから飛び立とうとしている。白や黄色や薄紅やの花々の咲き乱れる、あの春の光のなかへ。そして、これまでの言葉を見失いかけている。こんなエッセイもどきを書き綴っているのも、そのことに慄き、みずからの姿を大慌てで掴みなおそうとしているからといって、差し支えはないだろう。
もちろん、そんなことをのんびりと嘯いていられるのも、所詮はいっときに過ぎないのかもしれない。 また勤め人としての生活を送り始めれば、新たな鬱屈を囲う可能性は十二分にあるし、というよりこのようなテクストを認めていること自体が、不安の表れそのものだ。なんといっても、わたしはどうしようもないくらいの根暗の、悲観主義者だ。つい一、二か月ほど前にはわたしはほとんど憂鬱の底にいて、自分が灰色の肉塊としか思えない、などというようなことを(いささかの諧謔は含ませつつも)原稿用紙に書き連ねていたばかりなのだ。
とはいえ、こうして半ば浮かれたような心地で眺めている、このつかのまのうち過ぎぬかもしれぬ日々とて、また人生のひとつの真実の時間には違いない。
少し前、わたしは何某かの昆虫が脱皮をする場面をとらえた映像を見た。何の昆虫だかは、忘れてしまった。ただ黒く、硬く、どこか見るものの背筋を粟立てさえしそうなその外殻に、ひと筋の亀裂が走り、そこから白く透けた、まだどこもかしこもやわらかいそうな体がゆっくりと現れる、その瞬間。その瞬間の美しさに、わたしは思わず魅入った。息をのみ、眼をあおあおと張りつめさせて、ただじっと。
いまわたしはそんな風にして、まだひよわな手足を抱え、桜を散らす冷たい風に吹かれている。これから、どこへと飛ぶのだろうか。それとも、落ちるばかりなのだろうか。
その可能性のはざまで、わたしの心はしずかに頽れている。
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