誰にも誇らない人生を
先日いのちの電話協会の機関紙に寄稿をさせていただきました。多くの方に読んで欲しいのでnoteにもそのまま載せておきます。
「誰にも誇らない人生を」
精神科医という仕事をしていると「生きている理由がない」という人によく出逢います。
現代ではインターネットやメディアを通じて大層立派な人生を歩んでいる人たちの話が多く飛び込んでくるので、つい生きるのには大きな理由が必要なのではないかと考えてしまいます。
しかし、こんなことを精神科医が言って良いのかと思われるかもしれませんが、私は別に生きる理由なんてなんでもよいのではないかと思っています。だって気づいたら勝手に生まれていたのだから、何も手を加えなければ勝手にこの日々は続いていく。そこにそんなにたいそうな理由がいるでしょうか。明日見たいテレビがある、来週好きな芸人のライブがある、推しの新曲が聞きたい、まだ行ったことない国がある、食べてみたいものがある。人生や生きる理由なんて誰かに自慢するものでもないのだから、もう1日もう1週生きてみる理由なんてそんなことでよいのです。
昨今、自己肯定感という言葉がやたらともてはやされ、S N Sでは自己を肯定するためのアピール合戦、いいね集めが熾烈を極めています。多くは「あれも持っている、これもできる」と自分の人生を自慢し、他者からの評価を用いて自己の肯定感を高めています。しかし他者からのいいねで塗り固めた評価はふとしたことで180度ひっくり返ります。本来、自分に対する肯定というのはそんな不安定なもので作り上げるのではなく、そんな難しいものでもありません。「あれも持ってない、これもできない。でもそんな自分で良い、そんな人生でも悪くない」とあるがままを受容できるようになることが大切です。
我々は生まれた時から死へ向かう電車に勝手に乗せられています。
人生を頑張っていなかったから寿命は来ないなんてことはなく、誰でもがいつか勝手に灰になります。自身の死と向き合うのは恐ろしいことですが、考え方によってはその存在を逆に利用することもできます。
「この盃を受けてくれ、どうぞなみなみ注がしておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」という漢詩「勧酒」の名訳がありますが、どれだけ綺麗に咲き誇った花も嵐で散ってしまう、しかしその別れがあることを知っているからこそ今を大切に生きられるということが語られています。
「死を想え」と訳されることも多い「メメント・モリ」も同じように、死を意識することで、今を大切に生きるための言葉です。
たいそうな理由を並べようと並べまいとどうせ人生のゴールは決まっています。
世界を変える大発見をしようと、ただ何もしない1日を送ろうと平等に寿命は訪れます。
日本ではなんとなく死は須く不幸で、それに関して話題にすることもタブーとされている風潮があるのではないかと思いますが命を考える時、その終わり方というのは生き様そのもので、避けては通れません。
ゴールに着いた時、寿命が来た時に「死ぬには良い日だ」と満足しながら受け入れられる、それはこれまでの人生を自分が肯定していることに他なりません。誰に自慢するでもなく、最後の日に自分が満足するためだけに生きる。それだけでも立派な理由ではないでしょうか。
精神科医 藤野智哉
ちなみにこれ、実はゆるく生きるための方法を語った拙書「いい加減の処方せん」のあとがきを改変したものになります。もしご興味ある方がいれば、是非立ち読みでもしてみてください(^^)
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