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努力が報われるとは限らない。

「失敗したのは努力不足」

この言葉は、一見厳しいようですが逆に言えば「努力次第で成功することができる」「努力は報われる」なんて夢を見させてくれる言葉でもあります。

団塊世代の根性論に無理に原因を希求しなくても、人は夢を見たい生き物です。ゆとり世代と呼ばれて久しい我々世代が社会の一端を担い始めた現代でも、実際に多くの人が努力をすればなんとかなる、なんとかできると蜃気楼のような夢を追い労働を続けています。
国が人民に希望があると思い込ませて搾取し続けるためには必要な考え方でもありますし、生きるのには実際希望も必要です。努力をしてもなんともならないことが多くあり自分の努力が無駄になるかもしれないということを受け入れるのは勇気がいりますし、内容によっては心が折れてしまうでしょう。そうならぬよう、上手く自分を鼓舞することに使えるのであれば必ずしも悪い考えではありません。

ただ、この考えは使い方を間違えると「失敗するのは努力が足りないからだ」と自分にも他人にも押し付け追い込んでしまう危険性を併せ持つものでもあります。

精神科医という仕事をしていると個人のキャパシティについて考える機会が多くあります。この人のキャパシティでこの業務内容なら無理が出るのも当然だろう、この人のキャパシティでこの状況でこれほどしんどくなるのは不自然であり何か疾患が影響している可能性はないだろうか。そんなふうに評価を行っていくわけです。

その一方で受診する患者さん自身はそもそも自分に限界があるという発想がなく、「努力不足」に原因を帰結してしまっている方も多くいます。

残念ながら世の中には努力でどうにもならないことがたくさんあります。

今からプロ野球選手になれと言われれば多くの人は「不可能だ」とわかるのにそれくらいあからさまなものでないとなかなか不可能を受け入れられません。出世競争でなかなか勝ち目がないと心のどこかではわかっていてもこの会社にしがみついて夢を見るしかない。この業務量はこなせないと思っていても自分の努力が足りないからだ、となんとか頑張るしか選択肢が見えていない。

受け入れたくないですよね、だって自分がヒーローになれないのを突きつけられるから。スーパーマンじゃないことに気づいてしまうから。

だけどそれを知って、受け入れることで初めて自分にも他人にも「あるがまま」という視点を持ってあげられられます。

結果は出ない、なぜなら能力を超えているから。でもやれる範囲でやれることはちゃんとやっていた。

そういうことも全然あるしそれで良くないでしょうか。

それを知ったからこそじゃあ次はどう工夫したら同じ能力でもやれるかを考えよう、誰に頼ったらやれるだろうか、そう考えを切り替えられるのです。

結果だけ見て努力不足で終わらせる大間違いの連鎖から離れることができますし、何より努力がうまくいくとは限らないって思ってた方が、うまくいったときテンション上がりますしね。


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