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「ただいま日常」と想うくらいには、この街に馴染み始めて【東京・世田谷】

今までの私なら、絶対に頼まないようなメニューを頼む機会を増やした。否、増やしている。

例えば今日、いまこの時に手元にあるのは、ラテとあまーいホワイトチョコがかかったドーナツ。これまでは頼むとしたらコーヒーはブラックか豆乳ラテだったし、スナックならクラシックなスコーンだった。

別にチーズのたっぷりかかったチキンカツとか(メルボルンの名物だった)、お肉たっぷりの何かを突然選ぶようになったとか、そういう話じゃない。いつもの日常を、少しだけ「いつもと違う」で彩るようになっただけ。

それでも器の上に盛られた「いつもと違う色」たちは、旅先の色濃さとか、空気の暖かさとか、緑のそよぐ感じとか、時たまそういうことを思い出させてくれる。

振り返れば今年も冬で、私も結構人生を重ね始めて、20代の頃のように選んだものをすぐに捨て、見送ってしまうような日々の歩み方ではなくなっている。特段「絶対に手放したくない」なんて意気込むものは多くないけど、「これからも傍にいたい」「一緒に歩みたい」と大切にふわり両手で抱え込みたいものはいくつか見つかって、空の移り変わりと同じリズムと抑揚で、毎日を過ごしている。

「変わらなければ」と強く息巻くような気合いは失くなり、でも「緩やかに変わることは必要だ」と理解はしてる。傍らに、危機感も携えながら。

そう、危機感は消えないのだ。警鐘は、いつも遠くで静かに鳴る。

でも「一人ではないのだ」と感じる機会が増えたことで、それが「どうしてだろう?」と考える機会にも恵まれた。多分だけど、こんなことは「偶然に」「何度も」起こることではない。例えば一人で勝手に始めた写真展みたいなものの準備や片付けに、遠くから新幹線に乗って手伝うよと笑ってくれる人がいることや、ねえねぇ大きな国を広く旅したいのといった道を、そっと横にいてくれるような人に出会えたこと。そんな大それた「ハレの日」だけでなく、ただの「ケの日」に、「辛いの」とこぼせる人がいるような。

ふと目の前を、故郷のナンバーをつけた車が走る。こうやって「郷愁」や「愛情」を送れる場所が、増えることはとても、いいことだと知っている。

変わってゆきたい、と思う。描く日々があるならば、それに向かって「変えること」を積み重ねていきたいと本当に考えるようになった。勢いや気合いでなく、強く美しい城を生涯の豊かさのために築くような、土台と継続を以って。

大人になったのだ、と改めて自覚する。人生がいつまで続くものなのかは、まだ今の私は知らないけれど。それでもたいそうに続くものでもなさそうだから、であれば目の前を整えるような、そういったことはしてもいいし、した方がいいなぁなんて、世田谷の朝陽を浴びながら想う。

いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。