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「写真が上手くないと、胸を張ってカメラが好きと言えない気がして」#旅と写真と文章と

仕事終わりの、六本木。ひょんなことから一緒にトマト坦々麺とビールを飲んで帰ろう、とオススメの店に立ち寄る。

雨が上がったあとの、東京の匂い。水たまりがあったら、映る景色が、きっと綺麗だったろうな。それは昔読んだ小説『卒業写真』の世界のように。と、今夜の食事を選ぶ前に、カメラのことを考える。

私は、写真一本で食べていけるような、歴史に名を残せる写真家ではない。きっと、一世も風靡できない。

けれど、写真がとても好きだ。

機械にものすごく詳しいわけでも、メカ、というものを前にして気分が特別上がるひとでもない。

けれど、カメラというモノがこの世に存在してくれることに、心から感謝している。その行為が暮らしを彩ってくれる現状も、祝福してやまない。

トマト坦々麺を食べながら、隣に座る女の子が、『先日のせとうち旅で、カメラが好きだと、改めて気がついたんです。撮ることが、好きだなって』と、ふと小さな声で、けれど少し、先ほどよりも輝いたような目で言い始める。

でもずっと、気が引けていて。だって、私は写真が上手くないから』

『上手かったり、カメラに詳しかったり。そういう “得意” がないと、写真が好きだとか、カメラが好きだとかって、人前で胸を張って、言えないような気がしていたんです』と、ビールグラスを持ちながら彼女は続けた。

言葉尻は、私がすこし、意訳しています

わかる、と私は想う。「好き」があっても、「得意」がない。

「誰かに誇れる、私がない」。それがなければ、胸を張れない気がしていた日があった。

だって、「私」よりも写真が上手いひとって、本当に世の中にたくさんいる。

それだけじゃない。文章が上手いひとも、動画撮影が上手いひとも、ピアノだって、絵だって、語学だって、料理だって。

そう、何の分野にだって、本当にすべからく何の分野にだって、「私より上手い」はたくさんいる。

そして、その事実に一度くじけてしまうと、「好き」のつぼみは、まるでそこで花咲く準備をしていたことを誰にも知られたくなかったかのように、まるで最初からそこにいなかったかのように。

しぼんで、どこかへ消えてなくなってしまったり、する。

かなしい。

そのかなしささえ、「誰にも見せまい」と。

……でも、そんなこと、ないと最近想うのだ。誰が何と言おうと、「好き」は尊い。そして花咲く種に、いつかなる。

「私より上手いひとがたくさんいる」。その「たくさん」のひととの比較は、「好き」の前では意味をなさない。大切なことは、すべて「自分が何を好き」か知ることからはじまってゆくはずで。

そしてすべからく「上手いひと」の始まりには、きっとどこかに「好き」があったはずなのだ。本当に、ほんとうに一握りの天才、と呼ばれるひとがこの世に居るのか、私はまだ検証できていないけれど。けれどもし居るとしたら、そのひとたち意外の場合は、「上手い」と「続ける」は連動していて。

「続ける」ためには「好き」が必要。私はそう、信じているから。

スタートが遅いとかは、関係ない。もちろんU-20のサッカー選手とか、そうゆう年齢制限のある夢は、時効があるから致し方ない。私は、ワーキングホリデーのビザはもう取れない。

でも、サッカー選手を主役にした脚本なら書ける可能性があるかもしれないし、ワーキングホリデーを発給する側の仕事をして、ワーキングホリデービザ自体に関わることは、できるかもしれない。

私はそういう「夢の昇華」の仕方も大好きだ。

……ええと、とにかく。「好き」と「上手い」と「続く」と、「叶う」。きっといつか、つながってゆくはずだと、私は想う。

『写真が、好き。上手くなりたい』と彼女は紡ぐ。#旅と写真と文章と の旅が、そういうことの種を生む場になってくれたことを、本当に嬉しくも想っている。

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