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「自分以外を世界の中心に置かない」という光と呪

一喜一憂。気持ちが浮き上がったり、沈んだり。もうそういったことに飽きてしまって、自分の世界の中心は自分であろう、と決めた瞬間があった。たしかあれは、18歳の夏。

単純に言えば男女、の話だ。

「飽きて」、と言えば優位に立てるけれど、「疲れて」とか「悲しくなって」とか、「絶望して」という言葉に置き換えてみれば、あの時私がとても深く傷付いて、また1つ大きな膜を張った殻に閉じこもってしまったのは、今振り返っても容易く分かる。

そう、もう、私、傷付きたくなかった。期待をして、裏切られた気持ちになって、涙が流れて、泣き疲れて友だちの家で眠るみたいなことは、この恋で終わりにしよう、と胸に誓った。

傷を消化するまでざっと5年くらいかかった。身体的な傷は数週間で跡形もなく消えるけれど、人の中には結構残り続けるのだ、と身をもって知ったのはその頃だった。多少なり恋愛感情を持った人……いや、本当に好きだった人とこじれて、最終的には警察沙汰になるまで殴られるという経験は、もう金輪際、人生では御免だ。

そういえばしばらく、男の人と2人で個室にいるのが恐かった時期があった。それがたとえエレベーターの中だったとしても。結婚しても同じだ。しばらく、消えない。

期待しない

最高で、最低の言葉だと思う。人を、深い闇に突き落とすことも、救うこともできる、魔の力を感じる言葉。使い方を間違えたら、相手はもちろん、自分すら間違った方向へ導く。でも私、ずっと他人に期待しないで生きねばと思って、ここまできた。悲しいかな。

自分以外の誰かを人生の中心に置くという発想自体、恋愛体質の成せる大きなミスかもしれない。置こうと思って置いているわけじゃない。好きになったら、世界の中心に、その人が「居た」のだ。気が付いた時には既に。

でも結局は、自分の人生に私は言い訳をしたくなかったのだ。もとい、言い訳をしない人生を歩みたいと、その時に誓ったのだ。何か帰路に立った時に、「あの人のせいで」とか「あの人がこう言ったから」とか、なんか別の人とか事象にかこつけて、自分の選択の確度をぼかすみたいなことを、私はもう自分に許したくなかった。

角度としては小さいけれども、大きく舵を切ることを決めた。「自立した女」になりたいと思った。下がることは容易いけれど、立ち位置を高く置くこと(表現がなんて高飛車でいやな女なんだ)は賢いことに思えた。

「あなたに人生を左右されたくない」

もしかしたら私、愛した人にそれくらいのこと、言ったことがあるかもしれない。


期待しないという言葉の裏返しは、人への甘えだ。だって私、これだけ生意気で高飛車を連ねていても、まだ一人で生きていけない。生きていく覚悟もできない。一人だけで生きていきたいとも思ってない。

じゃあどうしたらいいんだろう? やりたいことも、今まさに手がけていることもある。手放すべきものと、手に入れたいものを天秤にかけながら、どちらの重みもまだ捨てきれない。

全部を。全部を手に入れることは、本当にできない(いや、私は全てを掴むつもりで毎日を生きてはいるのだけれども)。……だとしたら、次は、今は、何を掴もう? 

もう分かっているから、あとは進むだけ。前と目の前、両方を見つめて。

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