見出し画像

過去に囚われるのはやめて、恋をするように生きたいと思った。

ロンドンの街は美しくて、空が青いだけで、歩いているだけで気持ちがよかった。

透き通る空、通る抜ける風、流れる雲。今滞在している場所はなぜか子どもが多く暮らす街のようで、乳児から幼稚園児、小学生から大学生くらいの大人に至るまで、ありとあらゆる「こども」たちが、家の周辺でいつでも遊び声を聞かせてくれた。

そんな場所を歩いていると、ふと気が付くことがあった。本当に、ふと。

「そういえば私、過去にこだわるのをやめたな」って。

いつからだろう? 気が付かなかった。

正確に言えば、「過去を振り返るという行為に、こだわるのをやめた」のだと思う。

誰にでもひとつはあると思うのだけど、こだわらずにはいられない過去、振り返りたい栄光、忘れられない苦い思い出、いつまでも罵っていたいこと。ないかな。あるよね。

私はあった。

納得いかなくて、悲しくて、振り返りたくて、忘れたくても、忘れられなくて。忘れたくなんかない、忘れてなんかやらない、こだわって、切り離せなくて、奥のほうにしまい込んで、誰にも打ち明けられなくて、もうすぐ私の一部になりそうな、少しドロドロした、そう、それ。

普段は大丈夫なんだけど、感情のスイッチが入ったときに、「でもあのとき!」って思ってしまう。

私は、普段無駄な口が多い割に、きちんと自分の思っていることを話さない傾向にある。らしい。私は、態度に出やすい(出ている)からそれでも会話はできるんだけど、でも、「分からない」と言われることが、そういえば多かった。

大切すぎる気持ちは音にできない。だからこそ私は、音にならない文字にして、何かを綴ろうとしているのかもしれない。少なくともドロドロしたそれについては、言葉という音にして、世界に出してしまうのを、怖がっている節があった。

……あったのだと、今気が付いた。そしてそれを、いつの間にか忘れて過ごしていたなと、思ったのだ。いつからなのかは、分からない。この数ヶ月、だと思う。

いつか私は、「振り返らなければいけない過去」を手にして、それに向き合い、文字にしなければいけないのだと思ってきた。それを大好きな編集者の子に伝えて「何かにまとめてみたい」と言ったこともある。そしてそれを未だ守っておらず、ごめんなさいと事あるごとに思っているのは、まだ本人に伝えていない。

いつか私は、こだわって、温めて、固まってしまった何かを清算して、過去の私を脱ぎ去るために、そういつか「さようなら」と言うために、過去に向き合う日がくるのだと思っていた。

けれど今、「別にそんなことはどうでもよかったんじゃないか」と思う。

「どうせ100年後は、私たちみんながいないんだから」とマレーシアでもらった言葉が、私の中を反芻する。

過去に、なったのだ。「今」の延長線上、いや、後ろを振り返ったときにずっとついてくる、「昔」と「今」をつなぐドロドロしたそれは、いつの間にか、切り離された「過去」になって。

大人になったのかもしれない。ただ、記憶があやふやになってきて、色が褪せて、何色だったか分からなくなってしまっただけかもしれない。

ふたつ思う。

「過去が、過去になってよかった」

振り返ってばかりでは、きちんと前に進めない。こだわってばかりでは、進むスピードが遅くなる。爽やかな風は吹かなくて、いつまでも自分の足を引っ張ったまま。

もうひとつは、

「過去は、過去になりきらないうちに綴らないと、書けなくなる」

これは私の問題。いつか「過去」を振り返って書ける女になりたいと思った。

***

恋をするように、生きていきたいとロンドンの街で思う。

恋は、いつだって出会ったところ勝負だ。

「過去の私はね」「未来の私はね」と語ったところで、それらは「今の私」の付属品にしかならない。

「今のあなたが好きよ」なんて言葉は軽いけれど、でも「今の私」だけを見て、あなたは私に恋をする。

出たとこ勝負の「今の私」で、素敵だねと思ってもらえるひとになりたい。「過去の私が」「未来の私が」と言葉多く語る前に、私がいることで伝わるものがあるように、今をきちんと生きていたい。

過去に囚われるのはやめて、恋をするように生きていきたいとロンドンの街で思う。

生きていこうと、思った。

恋をするように、いつだってキレイに、笑って、言葉少なでも伝わるように、過去にこだわりすぎないで、ただ過去は大切にしていくだけで、

そう、前を向いて生きていこうと、やっと私は思えたのだ。今までも、そりゃあ思っていたけどね?



いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。