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時空が歪む旅

窓の外、昼の13時。明るい空、机に向かう土曜日の午後。

何度こんな日を海外で過ごしただろう。イギリスで、クロアチアで、チェコで、フィンランドで。

どこにいても私がやることは変わらなくて、11インチのMacBook Airの画面は、上野にいても、表参道にいても、インドにいても、タイにいても、同じだった。私は日本語を打っていたし、画像処理をして記事を書いていた。

アジアにいた頃、マレーシアと日本の時差は1時間だった。

インドネシアの時差は2時間、タイ、ラオス、ミャンマーも変わらなくて、インドへ行ったらなぜか差が3時間「半」に開いた。

イギリスでは8時間差、クロアチア以後オーストリア、チェコ、スウェーデンに至るまでずっと時差は7時間のまま変わらなくて、フィンランドに入って久しぶりに差が6時間まで縮まった。

日本が近くなった、と思った。飛行機や電車に乗ってひょい、と移動したら、「今が何時だ」という概念が変わる。それも自然に。みんなごく当たり前に、受け入れて。

フライトは1時間だったはずなのに、時差は1時間縮まって。私はいま、何月何日の何時にいて、それでもってこれからどこへ向かって何時間過ごすんだっけ。どこの国の何時のフライトを、信じれば、いいんだっけ。

※ちなみに私は数字にめちゃくちゃ弱い


なんだろう、そういえば「灯台もと暮らし」を作るために創設メンバー4人で2泊3日の合宿をしたとき、「時間の流れ方は場所によっておそらく違う」とたしかに感じた。同じ関東圏とはいえ、千葉県の房総半島の端っこのそのペンションは明らかな「異空間」であり「非日常」で、川が流れて鳥が鳴くその中で、「これから何をしましょうか」と話す時間は、やっぱり特別だったと今でも思う。私は朝起きて、テラスに出ながら歯磨きをするのが好きだった。蛇口をひねるきゅっという音で目覚めたあの日、「灯台もと暮らし」の原型はきっとあの中で生まれてた。


旅に出るまで、あまり口にしたくない言葉があった。それは「絶対」。世の中には絶対なんてことは決してなくて、できれば「必ず」という言葉を使いたいと思って生きてきた。

ただひとつ、「絶対」なことがあるとすれば「時間」だけだと思っていたけど、ここへきて私はその絶対すら、もしかしたらやっぱり房総のときみたいに、やっぱり、やっぱり平等じゃないのかもしれないと思っている。

飛行機に乗ったら違う国に着いて、違う国に着いたら違う街があって、けれど私は1ミリも変わってなくて、だけど流れる時間と時差はちょっとずつ異なっている。

マレーシアで神保町の原稿を書いて、ラオスでインドネシアの原稿を書いて、スウェーデンでデンマークの原稿を書いて、クロアチアで高知の原稿を書いて、フィンランドでタイの原稿を完成させながらイギリスに別の原稿を送る。

はっと顔をMacBook Airから上げたとき、そこにはたしかにフィンランドの時間が流れているのに、私の思考はタイや福岡に飛んでいて、それでいてイギリスやチェコとやりとりしていた。

どこの国が何時で、何時がどこの国で、日本は今みんな寝ていて、私が眠る頃みんなが起きる。今、私は眠るべきなんだっけ、それとも日本時間の19時に原稿が公開されるから、メッセンジャーの挨拶は「こんばんは」で、いやでも私の世界はまだ昼間で……。

今までただ唯一の「絶対」だと思っていた時間が、少しずつ、少しずつ歪んでいく。顔をMacBook Airから上げて空を見上げればいいだけなのに、夏のヨーロッパの空の明るさは私にとっては明らかに不自然で、夜なのに夜じゃない、満月なのに空がまだ明るい、なんだろう、不思議な、不思議な感覚に陥らせた。

このnoteを書きながら、まだ頭がふらふらする。時間は絶対じゃないかもしれない。私はいまほんとにフィンランドにいるの? いや知ってる、当たり前にいるんだけど、今は17時で、日本は23時で、来週の朝には私は日本にいて、また飛行機の中で「どこにも属さない空白の10数時間」を過ごして――。

もしかして、ずっと移動を繰り返せば、「今日が終わらない」なんてこともありえるのか?

頭の奥が、じんとしびれるように歪んでいく。ただのきっと、そうただの仕事のしすぎだ、と思って私は、少し歩こうと思って、フィンランドの街へ出る。土曜日の夜は、店が閉まるのが早い。そうだ今日は、たしかに土曜日だ。

でも、もし腕時計やMacBook Air、iPadで時間を確かめる術がなかったら、私は「今日が何月何日で何時」という情報を、何を頼りに信じればいいんだろう。

結局それだって、ひとが創りだした「決まり」でしかない。

いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。