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締切の合間に、泳げ、夏。

足を。足先から、ぽちゃん、ぽちゃんと音をさせて、静かに右、左、と水の中に沈めていく。次いで膝、腿、腰。一度カラダすべて水に浸して、最後に目をつぶって頭の先まで前身濡らす。

そう、この感覚が欲しかった、とカラダがふうっと緩んでいく。なぜ、いつからこんなにも泳ぐことが愛しくなったんだろうと考える。

フィンランドにいた頃から、なぜか泳ぎたいと感じてたまらなかった。泳ぎに行こう、と思って、映画「かもめ食堂」のロケ地である市民プールに向かおうとしたけれど、悲しいかな、夏季休業というものがヨーロッパにはあるようで(まぁ日本にもあるか)、ちょうど7月は休みに入ったばかりの時期だった。

25メートル、50メートル、100メートルと泳いでいく。不思議なことに、前よりも泳げるようになった気がした。旅先で、きっと毎日3キロだとか、4キロだとか、ひどい日には10キロ以上歩いたりしていたからだろう。体重は減ったけれど、体力はついた。「旅ダイエット」って結構おすすめよ、と思いつつ、「やっと来られた」という感覚を広げていく。

泳ぎたかった。ずっと、泳ぎたかった。水に浸る時間。足で蹴る水の重さ。冷たさ、心地よさ、上がった後に飲む「イオンウォーター」の美味しさ。泳ぐことの気持ちよさを、本当に、なぜ私はこんなにも愛おしいと思うようになってしまったんだろう。

結局この日は1000メートル、つまり1キロくらいは泳いだのではなかろうか。もちろんゆったりとだし、途中ビート板的なものにつかまってパチャリぱしゃりとしていた時間もあるけれど、トータルでこんなに泳げるようになっているとは思わなかった。いやまぁ、もともと「水遊び」って大好きで、泳ぐのなんてその中でも格別に好きなことではあったんだけれど。

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書き仕事というのは本当に締め切りと一緒に生きているようなもので、それも「絶対」ではないはずなのだけれど、どのみち私は「設定」がないと100%の力が出せないように設計されているようなので、とにかく7月某日まではその日に向かって突っ走るだけだった。

たまに、ごくまれに体験する「空白」。今日はそんな日だった。すとんと何かが抜け落ちたような、不思議な脱力感。宙に浮くような、なんともいえないくすぐったい気持ち。

50分になって、笛が鳴る。「10分間の休憩を挟んでください」みたいなアナウンスが流れて、水に浸っていたひとたちすべてが陸に上がる。1分、2分経つと、水面がしん、と音も波もたてなくなる。だれも、波紋を広げない。そんな水面を、じっと、ただ見ていた。

静かな時間だった。こんなときはいつも不安になる。私は暇が苦手だ。「ぼーっとしていなさい」なんて、難しい相談だと思っている。ぼーっとしていたら眠くなる。眠くなったら、寝てしまう。バカだから。寝てしまったら、時間が過ぎる。そしたら空の色が変わる。それがどうしてだか、もったいないと感じてしまうのだった。

ただ、今日くらいはその怖さに真正面から向き合って、ただ座って、時間が過ぎるのを待ってみてもいいのではないかと思えていた。24時間、365日のすべてが私の時間だとはまだ到底思えなかった。けれど、今くらいは、そうなんじゃないかと錯覚してもいいかもしれないと思っていた。

いつもこんな気持ちになる時は、大切なことを何か忘れている時だった。「ゆったりしているなぁ」なんて感じる時は、「本当はこんなことしている場合じゃなかった」という状況の時ばかりで、なんだろう、やっぱり不安になる。

これ、勘が何かを教えてくれているのか、ただ単に生き急いでいるだけなのか、ほんとに大切なことを見て見ぬふりしているのか。とにかく泳ごう、と思って水を掻いたら、1キロ過ぎていた、というね。

いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。