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『よい』という感覚は何処から来るのか

年に1度、ピアノの調律をお願いしている。

調律師のO先生は、毎回飽くなき技術の追求をされている方で、いつもお話がとても面白い。だもんで調律の後のお茶の時間も楽しみである。

今回は「柔らかく響かせるために返しを速くした」とのこと。

「今までは返しを速くすれば、柔らかい音になるのはわかっていたけど、どうやったら速くなるのかがわからなかった。でもついにその方法がわかったんです」

素人の私にはさっぱりわからないが、末っ子が弾いた音を聴いて納得。本人もタッチがあまりに違うのに驚いたという。
「まるで別のピアノみたい」とのこと。


調律は、数字合わせすればいいものではなく、
説明できないような「よい」という感覚が生じないとつまらない音になる。「非の打ち所がないけど、つまらない調律が多すぎる」と嘆かれる。

そういうことは調律や音楽のみならず仕事やアート全般に言えそうだ。

映画なんかでも、映像美だけだったらつまらない。手に汗握ったり、失敗したり汚れたりする時もあるから、人は最後まで目が離せなくなる。

O先生のところに、気鋭の作曲家が相談に来たという。
「いくらいい曲を書いても、何か物足りない。なぜだと思いますか?」

最近の作曲家はコンピュータや電子楽器でやることが多いらしいが
「古いピアノに触れた方がいいですよ」とアドバイスされたとか。

古いピアノには歪んでいたり欠けているところがあっても、独特の
よさや味わいがあるという。完璧ではないかもしれないが、説明で
きないようなよさや深みがあるらしい。製作に携わる人の身体感、
生き様の違いなのだろうか。

作曲家は、「わかるような気がします」といって帰っていったそうだ。

作曲家は楽器を活かす方法を知らなければ作曲できない。調律師も然りで、それぞれのピアノの良さを引き出す調律をしなければ、意味がないという。

例えば、素材の特徴やどんな調理方法をすれば素材が引き立つかを知っていないと、美味しい料理ができないのと同じだろう。

技術は「よい」という感覚を生じさせるためにあるもの。それは数値的に整っていて、ツルッとしていて綺麗なものと必ずしもイコールではない。

価値は見えないもの、測れないものに宿る。
或いは、見えているもの、聞こえているものの間にあるのかもしれない。

そこを動かすにはどうしたらいいか。
太古から職人やアートが目指してきたのは、そういうところではないだろうか。

見えないし聞こえないし、触れられない。
だから意識ではどうしようもない。
そこで「型」の必要性が生まれたのかもしれない。

「意識」を見える処、触れられる処に正しく配置すれば、無自覚的な感覚が発動して、何かが「起こる」。そのための作法が「型」であり、型に則れば、手足を動かし、対象物に向き合ってきた経験、身体の知恵が物を言うのではないだろうか。

O先生の「返しを早くすれば音が柔らかくなる」という確信も、調律の「型」の上に経験が乗っかって初めてわかったことだろうし、その方法はきっと手を動かしているうちに方法が「出てきちゃった」んだろう。


教育の目指すべき処は、本来そっちなんじゃないだろうか。

そんなことを思いながら、よもぎのドーナツを作る。素材を活かすには、時季を逃さず、一番美味しく感じる旬にいただくことも大切だから。

*過去にも調律の先生から伺ったことを書かせていただいてます。
職人とはこういう人のことを言うんだろうなぁと、いつも感心させられています。




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