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教養を身につけるヒント

この前、音楽にまつわる学生時代の話を掲載しましたが、
その後ふと感じたことがあったので、ちょっとお伝えしたいと思います。

こちらの記事では、ネットやAIの登場で誰でもすぐに知識が得られるようになったから、「偶然」出会う幸せが減ってるんじゃないか、という指摘をしました。

簡単に知識やモノを得られるようになることへの憧れが、今の便利な社会を生み出したのだと想像します。

今や、少なくとも先進国と言われている国では、どこに住んでいても、情報や物はすぐに手に入る世の中になりました。

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今から7年くらい前の話ですが、友人の北京電影学院の教授がこんなことを言っていました。

中国も近年では、インターネットの影響で誰もが知識を多く得られるようになった。でも、知識を得たからと言って、教養が豊かになるわけじゃない。どうしたら教養が豊かになるのかを、これからの中国は考えていかなきゃいけない。

以前、ケニアで緑化プロジェクトをやっていた時期があったのですが、当時一緒に事業をやっていたフランス人がこう言っていました。

日本には何でもあるが、子供たちの表情は暗い。ケニアには何もないが、子供たちはいつも笑っている。

情報やモノが多く集まる環境があれば、誰だって多くのことを「知って」いて、その知識のおかげで豊かな生活を楽しんでいる。

おそらく、情報化社会になる前までは、多くの人はそう思って便利な世の中に憧れたのではないでしょうか?あるいは、20年くらい前まで、田舎に住んでいる人が都会に憧れたのも、そういった情報なりモノなりがなんでも手に入ると思っていたからではないでしょうか?

これは、今となっては誰でも嘘だとわかりますよね。

知識が手に入れやすいからと言って、誰もが幸せになるわけではない。
教養が豊かになるわけでもない。センスが良くなるわけでもない。
むしろ、何もない中でも、その中に豊かさを見つけ、日々を楽しく生きていくことができることのほうが、ずっと豊かである。


多くの人が地方に移住している昨今を見ると、もうそんな嘘には騙されない人たちが増えているように感じます。ある意味、情報化社会が行き過ぎたからこその気づきとも言えますよね。

結局、知識そのものが大切なのではなく、知識を得るプロセスとか、見つけ方が大切なのだと思います。そこにその人の思いや意欲、生き様が見え隠れするでしょうし、そういった過程の中で学びを得ることこそが、教養につながるのではないでしょうか。

そう考えると、今ほど一人ひとりの「見つけ方」「プロセス」を重要視しなければならない時代はないのではないのかもしれません。

放っておけば私たちはネットでなんの苦もなく情報を得ている。
ネットで買い物をすれば、苦もなく物が手に入る。
けれど、指一本動かせばなんでも手に入ることは、当たり前ではない。

自分は指一本しか動かしてなくても、一見、便利に見えても、それは長い長い年月をかけ、いろんな人が多くの努力を費やした結果である。
便利さの中には、常にそういうものが隠されている。

時にはそういうことを思い出しておかないと、一体なんのために生きているのかわからなくなりそうです。

だからこそ、今は手仕事を大切にしたり、わざと不便なキャンプに一人で行ってみたりする方が多いのではないかと思います。
自分で火を起こして作る料理が、たとえしょぼい物だったとしても、どんなに美味しいかを体験したいのだと思います。

便利さはおそらく、人の体内時間に合ってないように感じます。

生きている実感を得るために、便利の中に凝縮された手間暇を追体験することは、案外大切なことなのかもしれません。





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