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不快を快に変える技は子育てにあった〜いつでも柔軟に変化できる自分を目指すために、いますぐ出来ること〜

80歳に手が届きそうな母。
昨年から急に認知症が進んだ。

頭がよくて仕事ができる自分像が強いらしく、ちょっと間違っていると言われると強烈に反撃するらしい。

「こんなにプライド高いなんて」と姉は嘆いている。

でも、本当にそうだろうか。
実は、以前できていたことができない自分、老いてしまった自分を認めたくない一心なのではないだろうか。

人間は極端に死を恐れる。

だから死に繋がることは全て認めたくない。
それは生存本能なので、ある意味正しい。
けれど、その生存本能が過剰に働くこともある。
過剰に働けば、あちこちに問題が起きる。

母は今、そういう状態なのではないか。

もし、自分が嫌だ、不快だという感覚をも受け入れ、それさえ自分と同化し、心地よいものに変換できたら、おそらく世界はもっと楽しめるものになるだろう。

老後の不出来な自分ですら、愛おしいものになるかもしれない。(自分が実際その歳になったら、どう感じるかはわからないけれど)

失うことを受け入れるのは難しい。

自分の嫌な部分を認めるのは誰だって難しいと思う。でも、それを生活の中で、自分の身の内に迎え入れ、同化させる訓練をすることはできる。

例えば、明治大正生まれの人たちがいまの我々よりずっと強くしっかりしているのは、若いころに戦争や飢餓などで苦しみながらも何とか生き抜いてきたからだ。

じゃあ、私たちも戦火の最中に身を置けばいいのか。

そういういうことではない。

日常生活で嫌なことが起こっても、自分の感覚を変えることによって、それを心地よいものに変化させることはできる。

一番わかりやすい例は、おそらく子育てにおいてだと思う。

子どもがやりたいことを邪魔しない、ダメ出ししない。
自分のやりたいことを子どもに邪魔されることを厭わない。

それを徹底する中で、自分自身の感覚やものの見方を変えていくことは、最初は難しいかもしれないが、次第に心地よいものになっていく。

「子どもに好きなことをやらせるなんて、躾に良くない」

という人もいるかもしれない。

でも、子どもは物事の良し悪しや分別が、大人と同じようにはつかない。大人の世界の常識が、子供の世界でも通用することはまずない。それにお母さんにとっていいことが、子どもにとってもいいことであることの方が少ないと思う。

親は子どもの要求をなるべくすぐにその場で叶えてあげる必要がある。それが、子どもへの愛情が最も効率よく伝わる方法からだ。

なによりも子どもにとって、親に集中してもらえること(=愛情)が栄養になっている。食べ物だって、親が集中して、子どもの要求をよく感じて、食べたいものを出してあげるから、栄養になるのだと思う。栄養学上の栄養以上に、まずは親の集中ありきということになる。

子育てにおいて、子どもの要求に合わせて自分の感覚を変容させていくことは、親としてだけでなく、人間として大きく成長できる。

そして、子どもはすくすく育っていくから、自分の成長度合いと子供の成長度合いがシンクロし、喜びは二重になってやってくる。
加えて、老後の自分自身にも貢献できるというわけだ。

祖母の死後、箪笥からおむつが出てきた。

昔の人は、子育てしている時に、自分の老後を考えて、余分におむつを用意し、箪笥の隅にそっとしまっていたという。

不思議に思った私に、母がそう説明してくれた。

昔のお母さんたちは、出産の際に自分たちの行く末に備え、これから生まれてくる子供達に苦労を掛けないようにタンスの奥におむつを仕舞い込んだのだ。

その親心に感動したのをふと思い出した。

目の前に大変なことが迫っている時ほど、先々まで考えて行動するのは難しい。

だからこそ、昔はそういった将来への備えを「言い伝え」とか「風習」のような形で伝承する、生活の知恵があったのだろう。そしてその瞬間だけは、育児でいっぱいいっぱいのお母さんも、自分の遠い将来、おむつのお世話になるかもしれないことを空想しただろう。

昔はおむつにだって、世の無常を感じる隙間があった。そういった生活の中の些細な隙間が、人生と謙虚に向き合い、自分の感覚を常に変化させることを容易くしていたのかもしれない。




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