後片付け

今日、前に、大変お世話になったヘルパーさんが訪問してくれて、母様に線香をあげて手を合わせてくれた。

ついでに、まだまだ大量に残されている母様の服や靴、品物、食器や調理用具など、一部の処理(断捨離)を手伝ってくれた。

母様は多分、親父に対するストレスもあって、最後まで物への執着を捨てることができなかったが、死んでしまえば全てが一巻の終わり、次に使ってくれたりする人がいれば、そちらへ回すのが良いのだ。

もうこの世に存在しない人に対する想いは、物よりも、心の中に概念として留めておく方が、いつまでも残るものである。

ということは、この古い一軒家の、一階にある物はほとんど用をなさないことになるので、全てを片付けてしまうと、空き家みたいにガラガラとなってしまうけど、それもまた一興だと思う。

年季の入ったヘルパーさんは、俺の一方的な与太話を正面からちゃんと聞いてくれて、母様にあまり見ることができなかった母性を感じて、暖かい気持ちになった。

また来週に、時間を作って本格的な処分を手伝ってくれるという。感謝である。

……

ついでに、またまた小津安二郎監督の名作「東京物語」をAmazonプライムで観つつ…。

若い世代の間に、旧世代が入ると、労われはするけど、いろいろと合わなくて、結果的に邪魔者扱いをされることになる。身内だからこそ、それがダイレクトに伝わってしまう。

しかし、歴史とともに世代が移り変わるとは、そういうことなのだ。人は生きて存在して時間を食ってそれぞれ動いているから。

旧世代が、無理に新世代の中に分け入ろうとすれば、大抵、老害扱いされることになる。

どんなに執着を持とうとも、非情に時間は、歴史は流れる。そして、決して元に戻すことはできない。

それが人の営みであり、仏教でいうところの無常ということなのだ。

さて、自分がこの世から消え入る時は、どのように老醜を晒すことになるのだろうか。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。