アイスランド大失敗日記④(見つかったパスポート)/長崎日々日記番外編
ナップザックに放り込んでいたスマホが、鳴った。
白夜とはいえ、もう明るくない。
ドミトリーの部屋は薄暗さに包まれていた。
すっかり憔悴(しょうすい)していた。
いま午後10時ごろ?
何の電話?
「ロスト・パスポート」のアクシデントを告げた日本の保険会社代理店員の人から、何か確認のコールでも入ってきているのだろうか。
だとしたら、悪いけど、どうでもいい。
話もしたくなかったので、何度も繰り返して鳴るスマホのコール音を無視し続けた。
コールは切れた。
いや? ちょっと。
「情報があったら連絡する。キミはそれまで待て」
そう告げたアクレイリ警察の巡査部長のことばが、急に頭に浮かんだ。
「もし、そうだとしたら、出ないと」
ナップザックから、スマホを取り出し、着信のナンバーを確認する。
電話番号は7桁。
「352」から始まっていた。
アクレイリの警察からの連絡としか考えられない。
着信ナンバーを慌てて押す。
Akureyri Police Officers speaking.
最初にそう、会話が始まったかどうか、覚えていない。
ただ、はっきりした声が、わたしの耳に届いた。
「トモヒコかい?」
「はい」
「わたしたちはパスポートを見つけた」
スマホの音声に全集中力を傾けた。
「いま、どこにいる?」
「アクレイリ・バックパッカーズ・ホステルです」
「わかった。今からこちらに来られるか」…わたしには、英語がそう聞こえた。
ベッドから体を起こすのが、とてつもない難行のように思われた。
パスポートが見つかった、そうか、よかった、なら、あした警察に行っても大丈夫なんじゃないか。一瞬、そういう思いがよぎった。
もう、自ら引き起こした重大案件に対する判断能力が麻痺していた。本来は「飛び起きて駆けつける」ところだ。
たぶん、巡査部長からすれば十分すぎる間が空いての返答だったに違いない。
「I see. 行きます」
喜び勇んで、というより、骨がきしむ音が体中から鳴りだすような感じで上体を起こす。
スマホをナップザックに入れて、ホステルのドアを開けたとたん、冷気が顔を刺した。
「車で3時間先まで、行っていたんだ」
アクレイリ警察署は、ダウンタウンからさほど広くない舗装路を緩やかに上った丘にある。
もうすぐその丘に着くかというときに、またスマホが鳴った。
「トモヒコです」
「キミ、いまどこにいる?」
「もうすぐそこまで、警察署までのところです」
「われわれはバックパッカーズの前に来ている」
あ、そうなんだ。警察のあの巡査部長が「自分たちが、いく」と言っていたんだ、聞き間違えている!
「すみません、すぐ戻ります」
来た坂を駆け下る。
警察車両がバックパッカーズすぐ前の、円形の広場に停車していた。
青いライトがボックスカーの車両の頭上で回転していた。
巡査部長はすぐにわたしを見つけて、ボックスカーの後部、両開きのドアを開け、そこへ招きいれた。
捕まえた容疑者、保護の必要がある人間、さまざまなタイプ…警察とかかわりを持った人が、この席に座るのだろう。
わたしは、犯罪をおかした「被疑者」でこそなかったが、ハコの中でようやく覚醒し、緊張を覚えた。
巡査部長が口を開いた。
「パスポートはあった。すでに警察が押さえている」
続けた。
「キミを乗せたあと去った男性は、その車でさらに3時間かかるところまで、行っていた」「それで、探すのに少し時間がかかった」
「カードも現金も全部ある、問題ない」
「ただ、そのバッグはかなり遠いところにある」
ここまでは、なんとか聞き取れた。
ただ、その探した相手、最初のヒッチハイクに”快く”応じてくれた高齢男性が、わたしが後部座席に置き忘れたパッキングバッグに気づいて、返そうと試みたのか、どうしようとしたのか、巡査部長は説明してくれたようだったのだが、残念無念、恥ずかしながら、その英語の発言内容が十分理解できなかった。
スマホで自動翻訳して説明をくだく理由もない。
「こういう内容、言っていたかも」と、推察も可能だが、いかに私記とはいえ、センシティブ極まるから、いいかげんなことは書けない。
「さて、パスポートとカードを返すのには、時間がかかる」
巡査部長の英語が、また耳に入るようになった。
「アクレイリまで持ってこなければならない。そしてわたしたちは『仕事』をする義務がある」
たしか「We have a duty as police officers.」のように聞こえた。
アクレイリ警察署へ、わたしにとっての”事件”を届けに行ったとき、「保険を請求するための証明が必要なので、何かドキュメントを書いてほしい」としつこく頼み込んでいた。
その書類作成の必要はなくなった。
事態は、わたしにとって、これ以上望みようのない方向に向かっているのは確定的だったが、より複雑になった「側面」もあった。
好意でヒッチハイクに応じた高齢男性を、わたしは結果的に「ある種の事件」に巻き込んでしまったのかもしれない。
いずれにせよ、アクレイリの警察が、この件で監視カメラを運用、数時間以上、記録画像を分析、そして、その追っていた男性の車を見つけ、たぶん、アクレイリからかなり離れた地の警察官を動員して、パスポート、個人口座に直結するカード、そして現金が入ったビニール製のパッキングバッグを「確保した」。一連の警察業務が実行されたことだけは、間違いなかった。
その処理の手続きに、相応の時間が要るということだろう…そう解釈した。
「あす午後8時ごろに、もう一度連絡する。そのとき、パスポートは返す。キミはそれまで(ホステルで)待っていて」
ボックスカー後部座席、向かって左の長めの座席シートに、お互い、斜め向き対面になって座っていた。
巡査部長は、言うべきことを終えた、というように、息をついた。
わたしは、喜びに狂気して
「I really appreciate you, Akureyri police officers!!!」と、まず礼を尽くすべきだっただろう。
だが、ことばが出なかった。
放心し切っていた。
「あす午後8時までには返す。わかったかい?」
巡査部長の念押しに「Yes. I see.」と返しただけだった。
そうか。パスポート、戻ってくるんだ。
わたしの心に浮かんだのは「これで大使館に行って、あれこれ説明、嫌な思いをせずに済んだ」という、相変わらず身勝手な感情だけだった。
タイミングがひどくずれた感じで、なんだか、ひどい脱力感が襲ってきた。
警察車両のボックスカーを降りた。
もうすっかり暗くなって、しかし、こうこうとテラスの光が揺れるバックパッカーズ・ホステルに、のろのろと歩いていった。
「キミ、病院へいったほうがいいよ」
バックパッカーズ・ホステルのベッドへ再び倒れこんだ、状況は明らかに好転したのだから、熟睡していいはずだった。
いつまでも眠れなかった。
すでに、二段でベッドが6つ並ぶ部屋は、若いバックパッカーが全員戻り、眠りについていた。
しかし、わたしのすぐ上のベッドの占拠者は寝返りが激しいのか、それともベッド自体が古いのか、ほとんどずっと、きしんで音を立てていた。
さらに、ホステルのテラスで酒を楽しんでいるであろう宿泊客の喧騒は、終わることがなかった。
腕時計を見た。
午前3時だった。
日本にいたら「いいかげんにしろ!」と、怒鳴るところか。
やったら、たぶん、返り討ちに遭う。
午前4時すぎ。ようやく静寂がホステルにも訪れた。
朝8時すぎに目が覚めた。
まずい。超マズい。
体がぜんぜん、動かない。
これは持病の「うつ」、その症状そのものだった。
体がベッドに張り付いてしまうのだ。
こういうときは、トイレに立つのも、ひと苦労だ。
「うつ病の薬、持ってきてなかったな」
まさか海外旅行中に、うつになるなんて、わたしにとっては、驚くべきことだった。
わたしは、50代が終わるころ、仕事に悩んだ挙げ句、新聞社在勤中、5か月近く入院したことがある。さらに、その3年後、53歳のとき、会社を辞めたあと「カイシャ漬けだった毒が抜けず」、さらに半年入院をして、病院の天井を見ながら暮らした。
「うつ」の傾向は、社会人になって数年、28歳のときから出ていた。”特効薬”は、「転地療養」…つまり、わたしにとっては旅に出ることだった。
最初の入院時も、主治医は、わたしに「海外で気分転換してくれば? それがキミには一番効くよ」と勧められた。
わたしは、「気が乗らない海外旅行は、かえって危ない」と思い、入院を選んだ。主治医はわたしの希望に任せた。
新聞社退社後、留学をしようとして、準備しながら、なぜか体力・気力が瞬く間に落ちていった。
それを主治医に相談すると、こんどは「旅に出ろ」とは言わず、すぐに入院の手続きが取られた。
退院後の復職活動は、必ずしも順調とは言えなかったが、地元のNPO団体で契約社員を務める傍ら、福岡の日本語学校に通って、日本語教師の資格を得るべく、420時間の講習・実習を受けた。
福岡市内の日本語学校に2年間、非常勤講師として勤務。
その後、ひそかに「一度は」と心に秘めていた「海外生活・勤務」を実現するため、中国の日本語学校へ教師として赴いた。
しかし、中国での生活は甘くなかった。
授業数のコマ数の多さに、たちまち悲鳴を上げ、半年で逃げ帰ってきた。
その後は、知人の田舎にある「空き家になった実家」に身を寄せて、アルバイトもしながら、時をつぶした。
60歳になって、企業年金がわずかなりとも入るようになり、投資の利益と合わせて生活するようになった。
この前後、「うつ」は時折、顔を出し、寝込んで1週間ぐらい、ろくなモノを食べることがない状態に陥り、わたしを悩ませた。
しかし、次第にその回数も少なくなっていった。
そして、久しぶり、「何か、もう一度、新たな出発をしたい」と考え、パンデミックのタイミングも見計らい、まさに気分転換を期してやってきたのが、今回のアイスランドへの旅だった。
「旅に出たら、晴れ晴れとする。海外旅行を『生きる糧』にしてきた、この自分が、その海外旅行先で、うつになるなんて」
もう、どうしちゃったんだ、問題は解消されたじゃないか、と自分に言い聞かせても、とにかく動くに動けない。
水を飲んでいない。
食べなくてもいい。しかし、水は飲まないと。衰弱が進むだけだ。
こういうとき、時間がたつのは本人が感じる以上に、とても速い。
誰もいなくなった6人部屋でひとり、硬直した体を横たえていた。
午後2時ごろだっただろうか。
アントニオが姿を現した。
座り込んで、わたしに目線を合わせた。
「大丈夫かい」
その少し前、ベッドのメイキングに室内へ入った女性に、釈明するように「I'm sick.」と告げていた。彼女から、わたしの状態を聞いたのかもしれない。
アントニオの瞳は、優しさに満ちていた。
ことば以上のいたわりが、わたしを包んだ。
「キミは、病院へ行ったほうがいいと思う」
そうだよね。アントニオのいうとおりだ。動けなくなった自分も、それがいいと思う。でも、ここは海外、アイスランドだ。いくら社会保障が充実、医療費もバカ高くないのでは? と予想できても、薬もらって治るレベルじゃないかもしれない、入院となれば、それこそカネが尽きて、別の意味で身動きとれなくなるよ。
そう話したかったが、そこまで詳しく説明する英語力はない。エネルギーの枯渇も著しかった。
アントニオには、パスポートが無事見つかったことを話していない。彼はわたしがそのことで参ってしまっている、と考えているに違いなかった。しかし、わたしは”新情報”をアントニオに話さない、というより、話すのも煩わしさを覚えるほどだった。
「これは、ギフトだ」
アントニオは、ガス入り(甘味はない)のミネラルウォーターの缶を、ベッドわきに置いた。
「ありがとう」
「すみませんが、どうも、起き上がれないんです。あしたも泊まりたい。あとワンステイ、できませんか」
「それから、レイキャビクに戻ります」
その日、午後8時には、アクレイリ警察署からパスポートが戻ってくるわけだから、追加でアクレイリに3泊する必要はなかった。
しかし、わたしには、どうも、あしたも、この動けない状態が続きそうに思えてならなかった。
「かまわないさ」
アントニオは即答した。
立ち上がり、部屋を出ていった。
「全部、ある」
ただじっとしていた。
のどは乾いていた。
しかしミネラルウォーターを求めて階下にいく、という気はない。
ギフトだ、とアントニオがくれたガス入りミネラルウォーターが、ベッドわきにあったが、その存在さえ、忘れてしまっていた。
トイレに向かう、最低限の義務をこなすだけだ。
腕時計の針は午後5時半をすぎていた。
アクレイリ警察署、黒縁めがねの巡査部長が「待て」と命じた『そのとき』まで、あと2時間超。
電話があったとして、動けるのか、オレ。
そんな思いが頭をかすめる。
見通しのきかない、迷路にさまようような気分。
そして。
もうろうとした頭にスマホの音が響いた。
時計を見た。
午後7時半すぎ。
約束の時間より、少し早い。
スマホを寄せて、耳をそばだてた。
「OK。終わった。いまから来てくれ」
巡査部長の呼び出し。今度は聞き間違えていない。
それまで抱き続けていた不安は、一瞬、消えた。
すぐに上体を起こし、ナップザックにスマホを入れて、ゲストハウスの階段を駆け下りる。
外は明るい。
ゲストハウスを出て、アクレイリ警察署へ、おなじみとなった緩い坂を上って、署の右手入り口まで、急いだ……はずの記憶が、いまとなってはすっかり、抜け落ちている。
巡査部長が、その警察署正面右手にある出入口のドアを開けた。
手にしているのは、開け閉めの封の部分が赤い、見慣れたわたしのパッキングバッグ。
「全部、ある」
巡査部長はそういって、わたしにパッキングバッグを渡した。
透明の袋の中に、赤いパスポートが、見えた。
バッグを手にしてすぐ、その重さと膨らみで、すべてのものがそろっていることが実感できた。
巡査部長は「もう、失くすな」という説教じみたことばは、一切口にしなかった。
バッグに目を落とし、見上げて、何も言うことができないまま、わたしの「確かに受け取りました」という視線を確認したのだろう、わずかな笑みを見せて、わたしの顔をしっかりした目でもう一度みたあと、すぐにドアに手をかけ、署内へと戻っていった。
10数秒あったか、なかったか、というぐらいの短いやりとりだった。
またしても、わたしは、お礼を言いそびれた。
英語がでない。何かを言おうとする「隙(すき)」さえ、巡査部長はわたしに与えなかった。
彼にとっては、一つの職務としての『仕事』が終わったにすぎない。
そういうことだ。
そのあっさりとした行動すべてに、わたしは深い尊敬を抱いた。
あまりに「異なる」対応
日本の新聞記者教育は、警察取材から始まる。
警察官に「食い込み、取り入り、情報を奪取」する。
そこには、媚、へつらい、恫喝、相互不信、悪乗り、駆け引き…ほとんどは、そんな感情しか存在することがない。ごくわずかなケースで、たがいに認め合う、そういうこともないわけではない。だが、それもあとから考えると「こちらの誤解」でしかなかった、と思わざる得ないケースも多い。
記者を辞め、顔を知る人もない、地元の繁華街にある「拠点交番」に、ある用件があって訪ねたのは去年のことだ。留守役を務めていた、その体臭で元刑事とわかる再雇用警察官の、あの見下すような目つきが、脳裏に鋭く突き刺さっている。
もちろん、わたしは、アイスランドの警察・警察官と、取材活動という関係で接したわけではない。
ただ、そのクールな行動のひとつ一つに、「なんだか、日本の警察とは、まるで違うな」という、素朴な思いが胸にわいた。
好感、いや、好意といってさえ、いいのかもしれない。
わたしは、ナップザックにパッキングバッグを慎重に入れ、さらに背負わず、肩にかけ、前に回してしっかりつかみ、速足でゲストハウスへ戻った。
わたしの表情は、ひどく変わっていたのだろう、部屋の入り口に置かれたソファに寝そべっていた大柄な青年が「ハアィ!」と呼び掛けてきた。わたしも手を上げ「ハアィ」と返した。
アクレイリを立ち去るときだ
翌朝、目覚めた時間は午前8時20分。
「これからレイキャビクに向かうバス、間に合うかな」という考えがリアルにすぐ、やってきた。
「うつ」は、すっかり、治っていた。
とにかく、アクレイリを離れることだ。
もう、これ以上、ステイする意味はない。
カードも全部止めた。
アクレイリからさらに先へ、道を進め、アイスランドの島を一周する。
夢物語だ。資金はなくなった。
大して準備をすることもなく、これまでの旅の延長線上で「行ってから、決めればいい、そのほうが面白い」と単純に考えた報いだ。
アイスランドの観光事情、ヨーロッパという土地の旅について、まるで舐めてかかっていたとしか言えない。
ミスはぎりぎりのところで、幸運にも回避された。ある意味、最高の形でフォローが効いた。
いまこのとき、アイスランドのすべてに、感謝しろ!
もう、あとは退却しか、わたしに選択肢はない。
ザックをまとめて、一階へ下り、アントニオを探す。
レセプションのカウンターで「アントニオは?」と聞くと、パソコンに向かっていた女性が「きょうは、いない」とだけ言った。
「チェックアウト、いいですか」
「Sure.」
「レイキャビクへ向かうバスの時間は?」
「10時」
世話になったアクレイリ・バックパッカーズ・ホステルを発つ。
きょうは8月8日だったよな。
二日前、6日夜に警察のボックスカーに乗り込んだ、その広場が、くっきりとした映像となって、わたしの眼前に飛び込んできた
あれから、ずいぶん、時間がたった気がする。
ゲストハウスを出るとき、肝心のアクレイリ・バスターミナルの場所を聞きそびれていた。
しかし再び意気揚々、また何かが”着火”していた。
チェックアウトしたとき、カウンターにあったアクレイリの地図を手にしていた。
「これに、バスターミナルの位置、書いてある。海沿いに歩くだけだ」
どこまで自信過剰なんだろう。
やがて、地図を読んでいるはずなのに、目指す方向とは逆方向らしいことに気づく。
朝早くから営業していたホームセンターのような店に入り、バスターミナルへの道を尋ねた。
案の定、説明してくれた中年女性は、歩いてきた方向と反対の道を示し、地図で丁寧に道順を教えてくれた。
着いた。バス停ナンバーは出発時と同じ、57番だ。
バスに自転車を載せようと、すでに待ち続けているツーリストの男女がいる。もう確認の必要もない。
わたしは、定刻10時の15分前に姿を見せたレイキャビク行きバスに、早々と乗り込んだ。唯一残ったカードを使って。バス代は往路と比べかなり安く、5300円あまりだった。
復路、バスは快調に進んだ。
途中、おととい6日、探し回って閉鎖を知り、今回の「大失敗」の象徴的モニュメントである、あの廃墟のゲストハウスが、川を越えた河岸段丘の上に、また見えてきた。
もし、パスポートが手元に戻らないまま、レイキャビクへのバスに乗り込んでいたとしたら、落ち込み、うつがさらに重症化したままだったかもしれない。
そもそも、「パスポート発見」の知らせを受けながら、うつを発症していたぐらいだから、アクレイリの病院に、ほんとうに緊急入院するはめになった可能性は低くない。
さまざまな意味で、かなり危ないところだった。
この長い、備忘録としての記録もようやく終章を迎えた。
しかし、わたしは、今回の件を忘れることは決してないだろう。
いま、こうして書き込みをしていても、胸が苦しくなる。
コトの発端は、シーズン最盛期のツアー客の多さについて無知で、それに気づきながら「なんとかしてやる」と傲慢そのままに、やみくもに強行軍へ走った、わたしの思い上がりに起因していた。
わたしがパスポート入りのビニールバッグを置き忘れた、男性の車、その高齢男性も、きっと善意でヒッチハイクに応じ、手を差し伸べてくれたに違いない。
そして、事態が極度に悪化、SOSを訴えても「アクレイリは遠い」と言って、断った白髪高齢男性、彼にできる範囲で、好意を示してくれた。
アクレイリ警察署まで連れて行ってくれた40代男性の優しさに救われた。窮地に一生を得る思いだった。
アクレイリ警察署の二人の警察官は、職務と真剣に取り組み、パスポートをロストするという、痛恨のミスを犯したわたしを、責めることもなく、淡々とプロの仕事に徹して、「蜘蛛の糸」にすがったわたしを手繰り寄せ、引き上げてくれた。
バックパッカーズのアントニオ。
「うつ病になったようだ」と訴えるわたしに、「病院に行くべき」とアドバイス、心配のまなざしに励まされた。
入念な準備を怠り、現地でそれに気づいても認めようとせず、自己を押し通し、そして転落、幸い谷底から這い上がれたのは、アイスランドの人々が常に示してくれた「ホスピタリティ」のおかげにほかならない。
奇跡だ。
わたしは日本へ戻る帰国日まで、レイキャビクにとどまり、もっとこの国のことを、真剣に知ろう、観察しよう、研究しようと誓った。
曇天の中を行くバス。厚い雲間から、ごくたまに降りて大地を照らす光が、わたしを癒やした。
(おわり)
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