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映画『プリンス ビューティフル・ストレンジ』をネタバレなしで深堀る。

プリンスが生まれ育ち、音楽関連制作の殆どを行っていた土地ミネアポリス。三つ子の魂百まで、とはいうが、幼い頃の性癖や影響を受けたことはその後も根強く残り続ける。デビュー・アルバム『For You』制作時期に、86年発表『Parade』の「Sometimes It Snows In April」が実は収録予定候補だった、とプリンスが唯一書いた自身の回顧録『The Beautiful Ones』に書かれているが、プリンスの達観性たるや恐るべしと言えよう。

 映画『ビューティフル・ストレンジ』はプリンスと関わった人たちの発言を丹念に紡ぎまとめられた、プリンスを知るために必須のレガシーだ。プリンス・エステート非公認であるため、プリンスの音楽や映像が殆ど流されない(それでもマニアックな人なら初物だとわかる、82年に計画された未発表のコンサート映画『The Second Coming』からの幻映像、画像ではない、があったりする)。よってプリンス関係者のインタビューよりプリンスを知るという形となっている。しかしそれが結果的に、プリンスに未知な人も彼の実像を知るきっかけとなるし、既にファンであっても更なる知識を得るられる、秀逸なドキュメンタリーとなっている。

 この映画を観て、もう一度読み返したくなった本がある。それが前述の『The Beautiful Ones』(以降『TBO』とする)だ。これは言いたいことは歌詞の中にある、そんなプリンスが突如自分の回顧録を書くことにした。しかし残念ながら少年期までの執筆でこの世を去る。ただ彼は書き進めようと資料を整理しており、デビュー時期までの自身の手作りフォト・アルバムという、超一級の資料が『TBO』内で写真にて掲載されている。よってデビュー辺りまでのプリンスの言葉は『TBO』にかなりあるわけだ。それなら映画を観ず、その三つ子の何たら宜しく、その伝記だけを読めばいいのか。もちろん全くそうではない。そもそも僕は映画『ビューティフル・ストレンジ』を観て、それぞれの関係者発言に触れ感動しつつも、果たしてその時プリンスは本当にそう思っていたのか、その辻褄が合っているのか、その確認作業をしなくてはと読み直したのだ。結果プリンスをより理解できることが出来た(エヘン)。『TBO』と映画『ビューティフル・ストレンジ』は、エステート公認本と非公認映画というある種ストレンジな関係だが、その二つが共にビューティフルに補完し合っているのだ。

 非暴力主義を貫くマーティン・ルーサー・キング・Jrは63年のワシントン大行進、64年公民権法、65年の選挙権法の制定と、公民権運動において一定の成果を黒人たちに与えた。しかしその65年には急進的黒人解放運動指導者マルコム・Xが暗殺され、キングもまた68年に白人の凶弾に倒れる。人種差別が無くなることは決してなかった。
 66年、少年プリンスが住む、抗議や暴動がしばし起こっていた危険地域ノース・ミネアポリス、そのプリマス・アベニューに、黒人の子供達がスポーツや音楽を楽しみ、大人達から専門的なレッスンが受けられ、文化や歴史も学べる、ザ・ウェイ(進むべき道、出世の道、何かを解決する方法、そしてWay outで出口という意味がある)というコミュニティー・センターがオープンする。このことを映画『ビューティフル・ストレンジ』では、代表のハリー・スパイク・モスの説得ある言葉を含めとても詳細に取り上げられているが、一方『TBO』では、ザ・ウェイに関して全く触れられてはいない。96年のオプラ・ウィンフリー・ショーでプリンスがミネアポリスに留まった理由を❝とても寒いから、悪い人達が来なくなる❞と説明しているが、それはあくまでミネアポリスの外にいる人々に対してのこと。殺伐とした環境だったノース・ミネアポリス、そこにシェルターのように、そして自身の音楽を研鑽することに集中できる場所として、黒人のコミュニティ、ザ・ウェイがあることは何よりの救いであっただろう。❝ミネアポリスが僕を作ってくれたからミネアポリスに残った❞、と『TBO』にあるが、ザ・ウェイはプリンス製作所と言っても過言ではない。プリンスが直接発した言葉には含まれていない裏の真実が、映画『ビューティフル・ストレンジ』に描かれていることが何より尊い。
 70年、12歳の時にザ・ウェイに初めて参加したプリンスだが、『TBO』に描かれている、父、ジョン・L・ネルソンと映画『ウッドストック』を観た時期と巧妙に重なる(尚全米公開が70年3月26日)。厳格な父がヒッピーなんてと反対していたが、とにかく音楽でいっぱいな映画が『ウッドストック』なんだからと強引に説得、結果観た二人は人生を変える衝撃を受けることになる。父との絆がそこで深まり、音楽に関することなら必ず誰かが味方してくれるとプリンス君は悟るのだ。預けられていた叔母の家にはピアノがどうしても入らず、父ジョンはギターを買い与える。果たしてプリンスの最初のヒーローはウッドストックに出演していたサンタナなのか、それともジミー・ヘンドリックスか。その答えのヒントも映画『ビューティフル・ストレンジ』での名プロデューサー、エンジニアのエディ・クレイマーの発言、ヴァニラ・ホワイトのストラトを弾くプリンスの写真にあろう。

 71年、日本なら中学2年生のプリンスが幼馴染のアンドレ・シモーン達と結成した初めてのバンドがグランド・セントラルだ。75年にドラム担当だったプリンスのはとこのチャールズ・チャズ・スミスから、後のザ・タイムのリーダーとなるモーリス・デイとなった際に、グランド・セントラル・コーポレーションとバンド名が変更される。73年から76年にかけてそのバンドは彼らが大好きな曲のカバー演奏をし、オリジナル曲も作っていた。後にプリンスがワーナー・ブラザースと契約したため解散、モーリス・デイらはシャンペーンとバンド名を変え継続させた等のアンドレ・シモーンのコメントがprincevaultにある。

参考:
https://princevault.com/index.php?title=Grand_Central

 映画ではミネアポリス・サウンドのゴッド・ファーザー(自称)ことペペ・ウィリーの貴重なコメントも聞ける。ぺぺはプリンスの従姉と結婚した際にミネアポリスにやって来た。彼のバンドである94イーストで、セッション・ミュージシャンとして75年からプリンスは雇われ、ギター、シンセサイザー、キーボード、ドラムをプレイした。またその際にアンドレ・シモーンもベーシストとして雇われている。その75年にミネアポリスのクックハウス・スタジオで録音された5曲(その全てにプリンスが参加)『The Cookhouse Five』がある。マット・フィンクがリマスタリングしているものの、95年のCD『94 East featuring Prince:Symbolic Beginning』にその5曲を含む全17曲収録の決定盤が既に出ており、ここからジャケットを変更して『The Early Years』、収録曲を入れ替えただけの『One Man Jam』、更にリマスタリングが施されたタイトルもリリースされている。

 ザ・ウェイでプリンス少年が師匠と崇めていたのが後にプリンスのバンド、ニュー・パワー・ジェネレーションのベース担当となるソニー・トンプソンだ。彼のことも映画『ビューティフル・ストレンジ』で触れられているが、そこでは、ザ・ファミリーというバンドのリーダーとして紹介がある(85年、ザ・タイム解散後にプリンスが作ったザ・ファミリー、そのメンバーとは全く異なる)。ザ・ファミリー名義での音源は世に出ていないのだが、76年にプリンスがギターで参加した「Got To Be Something Here」、そのスロウ曲を含むThe Lewis Conection(Connectionではない、ミススペルだと思われる)によるミネアポリスとセントポール(所謂ツインシティズ)でのみ流通していた幻のアルバムが今や復刻されて聴くことが出来る(その際にThe Lewis Connectionと修正されている)。そのザ・ルイス・コネクションというバンドはソニー・Tがリーダーで、ザ・ファミリーの変名だとされている。プリンスのギターも当然素晴らしいのだが、ソニーの意外にピュアな歌声も必聴だ。尚映画でコメントをしているピエール・ルイスはそのバンドに居るのだが、ローランド・ウィリスの方はザ・ルイス・コネクション時には在籍していなかった。彼は前身といえるザ・ファミリーのオリジナル・メンバー。そんな貴重な人も映画はしっかり拾ってくれている。
 尚70年代のミネアポリス・サウンドの礎を知るのに(そしてプリンスの人気の高まりと共にそのスタイルが完成していく80年代前半を知るのにも)恰好となる2CD『Purple Snow: Forecasting the Minneapolis Sound』も映画を観る前、観た後に手に取るのも良いかと思う。じりじり針音や初期ブート的強烈ヒスノイズ曲もあるが、だからこそ貴重なのだと感じさせる。圧巻150ページの英文ブックレットもいつの日か日本語翻訳が出てくれんことを。

 アンドレ・シモーンの母、バーナデット・アンダーソンはこの映画の時点では亡くなっているが、その娘のパトリシアらにより如何にバーナデットがプリンスを支えていたかが映画で語られている。『TBO』では、1章丸々彼女について書くと話していたとあるので、納得の扱いだ。

 エリック・リーズがホーン、プリンスがその他の音楽を演奏したジャズ・ユニット、マッドハウス。そのライブ用のバンドのドラマーだった人がデイル・アレクサンダーだ。こんなマニアックな人物にまで映画『ビューティフル・ストレンジ』でインタビューしているのは快感だ。彼がプリンスの初バンド仲間としてコメントをしているのだが、その内容は大変興味深い。他にマイケル・ジャクソンのThis Is Itのツアーに同行するはずだったベーシスト、アレックス・アルも、プリンスを理解した発言をしてくれている。

 パブリック・エネミーのチャック・Dとブライアン・ハードグルーブ、そしてミネアポリスのラジオ局KMOJのDJウォルター・Qベアらによる黒人のラジオ局の創設話もワクワクさせられる。映画では語られていないから、時系列について補足しておこう。KMOJ、その始まりはWMOJという放送電波が弱めのAM放送であった。その後78年9月15日にFM局としてKMOJ89.7FMがスタート。プリンスのデビュー・シングル「Soft And Wet」がビルボードR&Bチャートで最高12位を記録したのが78年9月23日である。84年にKMOJは89.9FMとなり現在に至る。

 映画『ビューティフル・ストレンジ』でのチャカ・カーンの発言はどれもこれもエキサイティングだ。彼女の喋り方そのものがファンクだと言えてしまえる程。『TBO』で、❝崇拝している相手を負かすことは出来ない❞とプリンス自身が書いているが、チャカが間違いなくそんなアーティストだと映画を観ればわかってもらえるはず。彼女が在籍していたバンド、ルーファスの「Sweet Thing」を非の打ち所がないファンキーなスロウとプリンスは『TBO』にて大絶賛しているが(もし君がファンキーなら、バラードだってファンキーになるんだとも)、そのイントロを聴いた衝撃と同じものが自身が書いた(名曲)「Do Me, Baby」にある、とプリンスは述べている。ルーファスの74年のアルバム『Rufisized』収録の「Pack'd My Bags」、そのピアノ・イントロもセントラル高校時代のプリンスは褒め称えていた。またリズム・ギターの何たるかはルーファスのトニー・メイデンから教わったと、『TBO』の共同執筆者、ダン・パイペンプリングにプリンスは説明している。プリンスはチャカ・カーンとルーファスが大好きなのだ。

 プリンスと信頼関係のあるニール・カーレンのコメントも映画にはある。彼が書いたプリンスの内面を鋭く書いた『Forever In My Life』も映画への橋渡しとなるので必読だ。
 
 ライブでプリンスはなぜあのフレーズを自身のプレイで披露したことがないのか、その理由もZZトップのビリー・ギボンズが映画で仄めかしてくれる。

 ドキュメンタリーにはアドヴァイザー、総括して見てくれる人物が一人は必要となる。恐らくそれを担った人物が、ミネソタ州のFMラジオ89.3The Current内の番組『The Local Show』のホストを務めていた音楽ライターのアンドレア・スウェンソンだ。プリンスの『1999』、『Sign O' The Times』、『Diamonds And Pearls』のSuper Deluxe Editonのライナーを担当し、21年に『Got To Be Something Here:The Rise Of Minneapolis』、そして24年5月21日に出版予定の『Prince And Purple Rain 40 Years』を執筆している。映画内での彼女の一連のコメントは、プリンス・エキスパート然とした的確なもので、このドキュメンタリーを潤滑に進行させる裏のホストと言ってもよい役割を担っている。尚映画の真の進行役、ナレーションは『遊星からの物体X』、『プラトーン』、『バード』、『アルマゲドン』等ジャンルを問わず数多く出演しているキース・デイヴィッドだ。

 ファンによるプリンス、ペイズリー・パークへの愛情あふれるコメントの数々は、プリンスが好きならば100%同意するだろうし、プリンスを知らない人でもこういう人、こんな空間があったのか、と驚くこととなるだろう。
 ペイズリー・パークのお抱えDJにもなったダドリーDが全く知らなかったことを語ってくれている。それとは別にプリンスと彼の出会いをここで補足しておこう。97年、ダドリーがペイズリー・パークで既にDJを行っていたブラザー・ ジュールズと共に仕事をしたその最初の夜のこと。「Kiss」から「Erotic City」へと流れるミックスを披露していると、プリンスが近づいてきた。❝これはジュールズのミックスかい?❞そう聞かれたダドリーは、違います、と答え自分が回しているレコードを指差した。その時プリンスは❝これをミックスしているのは君なのか?❞、はいとダドリーがうなずくと、プリンスもまたうなずいて❝クール❞と言って、夜の闇に消えていったそうだ。以降プリンスのツアーに同行し前座で回したりしている(02年のワン・ナイト・アローン来日時にも居た)。

参考:
https://first-avenue.com/performer/dudley-d/

 またプリンスのアフターショウ(通常のコンサート終了後に小さい会場でレアな曲を披露するプリンス独特のライブ・スタイル)に行った人の話が出てくるが、これは時期的に88年7月26日のロンドン、カムデン・パレスでのものだと思われる。この時はラブセクシー・ツアー中に行われていて、ダンサーのキャットに「Happy Birthday」を歌い、ロン・ウッド、メイヴィス・ステイプルス、ミーシャ・パリスがゲスト。この模様の一部がBBCで放送されたペイズリー・パークのドキュメンタリー『Prince:Musical Portrait』にて確認出来る。

 チャカ・カーンが映画終盤に語る、悲しかったこと。完成した映画を観たチャカ・カーンの感想が知りたくなった。プリンスに対する更なる発見を語ってくれるのではないかと僕は思う。映画『ビューティフル・ストレンジ』はその全てを観てこそだからだ。プリンスの真実に限りなく近づいている映画だと、彼も大納得していることだろう。

参考:
https://note.com/ebs/n/n64bbc0df5de9

https://npg-net.com/2024-04-21-2/

https://npg-net.com/2024-04-24/

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