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新しいテクノロジーが変えるメディアのかたちと体験 -柳瀬博一さんの講義から-

「これからのメディアを考えるとき、私は紙の本が一番いいと考えています」
3月半ば、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院でメディア論の教授をする柳瀬博一さんが主催したイベント「メディアの話をパワポも映像も使わずにやる夕べ」に参加した。
出版物の販売額は1996年あたりから減少を描き始め、2019年頃から電子出版のおかげでやや持ち直しているが、依然低水準にあることは変わりない。
しかし柳瀬さんは紙の本にこれからのメディアの可能性があるという。それはなぜだろうか。

出版科学研究所より(※1)

メディアとは

20世紀のメディア研究者、マーシャル・マクルーハンは『メディア論』の中で「メディアはメッセージである」と述べている。

これが意味するのは、メディアが「個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張によってわれわれの世界に導入される新しい尺度に起因する」ことである。

メディアが伝達している内容(メッセージ)ではなく、その伝達を可能にしているメディアの形式こそが重要である。

現代社会学辞典 p.1244、1250


つまり、伝達される内容(What)以上に、それがどのように伝えられるか(How)の方がより重要であるということだ。

柳瀬さんによれば、メディアは3つの要素で構成されるという。それは、1.コンテンツ、2.プラットフォーム、3.ハードウェアである。
小説・曲・ドラマといったコンテンツは、作者が表現しただけでは伝わらない。出版流通・ラジオ放送・テレビ局といったプラットフォームを通じ、本・ラジオ・テレビといったハードウェアによって初めて不特定多数に届く。
第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチ党がドイツ国内の支持を得ていったのも、プラットフォームとハードウェアをうまく活用したところが大きい。800万個もの国民受信機(=ラジオ)を大量生産し、安価で家庭に提供する。国民はいつでもナチ党によるプロパガンダを聴くことができるようになった。当時、もしテレビやYouTubeがあったら、ナチ党があれほどの支持を得ることはなかった。柳瀬さんはそう分析する。
神経質で落ち着きがなく、晩年にはパーキンソン病による痙攣症状を抱えた「カリスマ」の映像はビジュアル面で大衆の心を惹くものではなかったはずだからだ。

メディアが変わるとき

コンテンツとしてはほとんど変わらないが、プラットフォームとハードウェアが変化したことで、幅広く普及したものの代表が、聖書(キリスト教)だろう。
初期には口伝による教えだったものを、モーゼが石盤に記し、それを持って各地の人々に説いてまわった。その後内容はパピルスに記されたが、それを手にできたのはごく一部の人のみだった。グーテンベルクの活版印刷を経て、一般の人でも安く聖書が読めるようになり、さらに信者を増やした。
それだけでなく、誰もが自身の目で聖書を読める環境が整ったことは、ルターによる宗教改革を後押しする結果となった。可視化された聖書の中には、教皇の権力も免罪符も明記されていなかったからだ。活版印刷という技術、そして紙の本というハードウェアがキリスト教というメディアそのものの質を変化させた。今ではラジオやテレビで宗教放送があり、AmazonのKindleでは無料で聖書をダウンロードすることができる。

同じような変化は、近代に発展したメディアでも現在進行中である。長らく発信力をもっていた新聞・テレビ・雑誌・ラジオはコンテンツ制作が中心である。そして自らがプラットフォームとなったことで権力と支持も得た。
ところが、2000年代以降にメディアとしての力をもったのは、GAFAMを筆頭とするビッグ・テックだ。AppleはiPhoneをはじめとする自社ハードウェアにコンテンツを付随させることでプラットフォームとなった。Amazonは販売システムをプラットフォーム化し、Googleはありとあらゆる情報を、Facebook(Meta)は人間関係・コミュニケーションをプラットフォームにした。
彼らに共通するのは、ほとんどコンテンツそのものをつくっていないことだ。コンテンツではなくプラットフォームとハードウェアの側面から、メディアの勢力図を書き換えた。
2020年に上記5社の時価総額が東証一部2170社の総額を上回ったことをみれば、メディアがコンテンツからプラットフォームとハードウェアの時代に移り変わったことは明白だ。

街がメディアになる

2010年代後半以降になり、これら新しいメディアの普及率はほぼ100%となっている。誰もがスマートフォンを持ち、LINE、YouTube、Gmailを使うのが当然になると、ハードウェアとプラットフォームで差別化するのが難しくなっているのが現状だ。
「ハードウェアとプラットフォームに行き渡っていたメディアの勢力がコンテンツに揺り戻されているのが、今現時点だと感じます」
奇しくもこの講義が行われた前日、米アカデミー賞にて『ゴジラ -1.0』と『君たちはどう生きるか』がアカデミー賞を受賞した。特撮・アニメという日本が得意とするコンテンツ制作は、1950年代からまったく変わらずに強さを誇っている。

次にくるメディアの一つとして、柳瀬さんはVRゴーグルの可能性をあげる。特にAppleが発売したVision Proは、リアル空間にPC画面や情報を表示でき、次のメディアを形作っていく可能性があるという。
リアルな空間と仮想世界・仮想情報が同居するということは、街や都市そのものがメディアになることだと柳瀬さんは言う。
自宅やオフィスにいなくても、視覚の中にオフィス空間やPC画面が表示される。公園のベンチや街のちょっとした空間がオフィスになっても決して不思議ではない。
そればかりではなく、街中にゴジラやアニメのキャラクターを登場させることもできる。わざわざディズニーランドに行かなくても、今いる場所にディズニーのキャラクターを登場させて体験を提供することもできる。現実世界と仮想世界の融合は、エンタメや娯楽・商業施設のあり方をまったく変えてしまう可能性がある。

現在、プラットフォームとハードウェアの変化の恩恵をあまり受けられていないのが読書体験だ。
日本における有料電子書籍利用率は約20%と、諸外国に比べて低い(アメリカ約50%、中国約80%)。(※2)
それは、日本語が漢字・ひらがな・カタカナという混在した複雑な表現形態を持っているからだと柳瀬さんは考える。
私たちは本を読むとき、読んでいる文章の箇所だけで内容を理解しているのではなく、前後の文章や段落との関係性、全体での位置付けなどを瞬時にかつ複合的に判断して理解を進めている。電子書籍は一画面上の情報しかないため、自然な読書体験につながりにくい。柳瀬さんはそう指摘する。
そころがVRゴーグルをつけた世界では、擬似的に本の形状を再現し、ページをめくる体験をすることができる。物理的な本がないのに、仮想的に本をめくることができる。電子書籍の欠点を克服し、これまでの読書体験と同等の体験をできる可能性を、VRゴーグルはもっている。

VRゴーグルというハードウェア、GAFAMなどのプラットフォーム、アニメ、書籍、映像などのコンテンツがシームレスにつながり、街(日常世界)が常時メディアとなる。そこで一番大切になるのは、自分の身体をどこに置きたいかという感覚だと柳瀬さんは説明する。
これまでは都市部と郊外・農村部で人口と経済の格差があった。地方間そして地方内でもコンテンツの魅力をうまく発信できるかどうかで訪れる人の数が決まったし、そもそも観光資源が必要なことも多かった。
しかし、戦国時代のドラマと親和性があるのは、都市ではなくなにもない草原かもしれない。VRでそこに合戦のシーンをリアルに再現することができれば、なにもない土地がコンテンツになる。
「コンテンツとコンテンツをやみくもに組み合わせるだけだったり、ただなにかがありますというだけではこれからのメディアは面白くなくなると思います。大事なのは『動詞で考える』ことです」
目の前で戦国武将が刀と刀を交える迫力を感じられたり、本をめくったりすることができる。動詞で考えるというのは、身体性をより大切にすることでもある。
ハードウェアとしてのVRゴーグルが変えるメディアの可能性を語る柳瀬さんから、体験レベルからメディアを捉えることがこれからますます大切になっていくと感じた。そしてハードウェアとプラットフォームが変化したとしても、実はその原理原則はいつの時代も変わらないのかもしれない。



(※1)https://shuppankagaku.com/statistics/japan/
(※2)インプレス総合研究所https://research.impress.co.jp/report/list/ebook/501228


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