国葬と国民葬

先日の拙引用リツート

で、思い出したのがコレ(相変わらずワンパターンですな)。

【山県と大隈】
▼「国葬」と「国民葬」はどこが違うのかよく知らないが、佐藤栄作さんを悼む「国葬に準ずる国民葬」が行われた。昔も「国民葬」はあった。「大隈重信の国民葬のときは、葬儀に参加した者は反政府的だと警察にいじめられた。いまは政府の指示で国民葬をやる。世の変わりに感慨無量である」。こういう趣旨の投書が朝日新聞に出ている。
▼大隈重信は天保九年二月に生まれた。山県有朋は、同じ年の四月に生まれている。大隈が死んだのは大正十一年一月十日で、山県はそれより二十二日おくれて、二月一日に死んだ。ともに八十五歳の生涯だった。山県が長州の萩で生まれ、大隈は肥前の佐賀で生まれた。この相違が二人の人生を大きく分けることになった。
▼山県は長州閥という政界大山脈の頂上に君臨していた。大隈は、明治維新の主流にならなかった肥前の出身として、薩長の間を渡らねぱならないという政治力学に苦しめられた。死んだとき、山県公爵は天皇のご沙汰により国葬をもって遇せられた。大隈侯爵は国民の声で、国民葬が行われた。
▼山県の国葬はさびしかった。不参者の数は多く、葬列の沿道に半旗を掲げた家も少なかった。当時の新聞は「この淋しさ、つめたさは一体どうした事だ。全く官葬か軍葬の観がある」と伝えている。山県は軍と宮中と枢密院に閥のアミを張りめぐらし、隠然たる力を持ちつづけていた。「一介の武弁」 と自称し、寡黙なスタイルで、民衆から遊離した傲然たる存在だった。
▼「彼から見捨てられていた民衆は、それ故、また彼を見捨てていた。そして、彼の死に対しても冷ややかであり、無関心であったのである」(岡義武『山県有朋』)。同じ日比谷公園で、一ヵ月前に行われた大隈の国民葬は、参加者三十万人を数え、雑踏の中で盛大をきわめたものだった。
▼大隈の「国民葬」には「民」があり、山県の「国葬」には「民」がなかった。
(1975/6/18)

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さて、いよいよ明日(9/27)は、佐藤栄作さん大甥の「国葬」ですネ。
それを言い出したのが吉田茂さん孫というのがまた感慨深い。

(まとめ)
1922年1月17日、大隈重信「国民葬」
1922年2月9日、山県有朋「国葬」
1967年10月31日、吉田茂「国葬」
1975年6月16日、佐藤栄作「国民葬」
2022年9月27日、安倍晋三「国葬」←new!
※大隈と山県の葬儀は日比谷公園、他は全て日本武道館。

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