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ルーマニア革命時、日本の戦時中、国民にとって演劇の意義とは?

 上記の記事の続きです。下記の記事と論文を引用しながら、考察していきたいと思います。(私は芸術、演劇は専門としておらず、なるべく資料と論文に忠実に記事を書きましたが、見解が誤っている場合はご指摘ください。)

私は基本的に役者なのですが、共産主義、チャウシェスク時代に私たちは国外へ旅をする可能性を奪われており、パスポートも与えられていませんでした。そしてテレビ・ラジオについても、放送時間が大変短く、ほとんどの時間帯で公式訪問などチャウシェスクの動静の宣伝だけが行われていたのが実態でした。

同時にチャウシェスクは、文化関係者を大変憎んでいました。彼が進めようとしていたのは、「ルーマニアの歌声」という全国規模の大文化祭典で、彼の個人崇拝を推進するような内容だけが奨励されるものでした。このアイデアが生まれたきっかけは、大変親しくしていた北朝鮮の金日成を訪問した時です。これが大きな理由で、演劇の活動に対しても検閲が大変厳しく行われていました。

そして、プロの演劇人たちに対しては、最低限の食べるお金は出しても、いわゆる舞台をつくる費用などの援助はほとんどなかったため、財政的に非常に苦しい立場に置かれていました。自分たちのチケット収入で演劇活動をしていくことを強いられていたわけです。それが理由で、年にだいたい400本ぐらいのステージをこなさないとプロの役者は生きていけないという状態に置かれていました。1日に1本やっているような状態です。大変厳しい時代でした。

一方で、演劇というのは自由の空間でもありました。どういう意味かと言いますと、例えばシェイクスピアの『リチャード三世』をやったとすると、観客は我々のやる『リチャード三世』を見て、これはチャウシェスクのことを言っているのだとみんな判るわけです。ですから、演劇の言葉を通じて、ある意味で第二の自由な言語の世界が築かれていたと言えます。その意味で私たちは、独裁に反対する活動で大きな責任を負っていたとも言えます。ですから、演劇人は、国民、大衆から大変尊敬されていました。

同時に、これは非常に皮肉なことなのですが、誰も国外に自由に出て行けないということで、私たちは多くの勉強する時間ができたのです。一生懸命本を読み、そして多くの人が外国語を勉強しました。それが理由で、私たちの観客の文化的レベルが非常に高まったということができます。ですから、独裁には非常に悪い側面もたくさんあったのですが、それに反して良い面も、逆説的ですが進行していたところがありました。

私のような役者、あるいは他の演劇人たちは、先程言ったように多くの舞台をこなさなければならなかったので、自分を心身ともに鍛えなければ生き残っていけなかった。つまり、この時代は、演劇の基礎、役者としての基礎を徹底して鍛えられた時代でもあったのです。

そして1989年の革命が起こり、シビウの劇場は炎上しました。歴史的に4度目の炎上でした。1788年に創設された中部・東欧圏でも一番古い劇場のひとつがシビウにあることからもわかるように、シビウは大変古い時代から演劇活動が盛んな街でした。劇場には、バラの木で飾られたバルコニー席があり、ドイツ語の演劇誌も発行していました。

太字は原文ではなく、富田による。

 ルーマニアにおける演劇は、独裁政権に対する批判的な意見や不満を、代弁してくれるものとして、国民達に受け入れられていたようです。また、「独裁に反対する活動で大きな責任を負っていた」ため、職業演劇人の評価も高かったと、キリアック氏は述べています。
 キリアック氏は演じる側でしたが、一般市民であるホストファミリー達も、革命中に演劇を心の支えだと感じていたと述べていました。

 この記事を書くにあたり、日本では戦時中演劇がどのように扱われていたのかを調べてみました。

戦意高揚、国力増強といった戦時情勢を支える大義名分をもって推進された演劇政策が、はじめのうちは、日本の演劇文化の向上を目指すことを強調していた

「戦時下の農村と演劇ー素人演劇と移動演劇」pp.66 l6
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/47/0/47_63/_pdf/-char/ja

 つまり、「戦争に向けて国民の思想を統制するため」という本音を隠すべく、建前としては「演劇文化の向上」をうたっていたということですね。
 
この論文には、移動演劇を通して農民たちの演劇に対する評価が「だらしのない連中」から「立派な社会人」に変化したと書いてあります。(pp.78 l8-13) 国策として演劇を通して戦争への士気を高めようとすると同時に、農民にとっては、初めて一流の演劇に触れるきっかけとなったことが分かります。

もっとも観客のほうも、このような作り手側の思惑をそのまま受け入れたわけではなかった。戦時中の演劇を観客がどのように受容したかについて先行研究はほとんどなく、この分野でもさらなる研究の発展が望まれるが、たとえば曽我廼家五郎が次々と発表した「国策劇」が評論家ばかりか観客の支持も受けず、かえって何も考えずに笑える旧来の作品が人気を呼んだ、という事実は、まさに演劇が統制しにくいメディアであることを示している。

日比野 啓, 林 廣親, 山下 純照,「戦時演劇研究」, 2009, p.8 上段 l15-下段 l1
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/47/0/47_63/_pdf/-char/ja

 戦時中に国策劇以外で、「旧来の作品が人気を呼んだ」とあるように、笑うことができる演劇も上演されていたことを考えると、国民の娯楽的な要素もあったように考えます。観劇中のひと時だけ、戦争のことを忘れることができたのではないでしょうか?

 国民性、それぞれの国における演劇の位置づけ、戦いの目的等、ルーマニアと日本を単純に比較することは難しいと考えます。ただ、有事の際に芸術がどのような役割を担ってきたのか?を考える一つのきっかけとして、この記事を読んでいただけると幸いです。

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