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「写真の創作」って何?(12)・・・写真の悲劇とphotographの希望・・・「写真」は「copy」で「photograph」は「build」・「compose」?

写真の創作物としての価値

素朴な疑問・・写真は創作物として著作権法で保護されるものの、我が国においてその価値は、他の創作物より低くみられているのではないか? そうだとすると、それはなぜか?

写真が創作されるものであることは確かであるが、その創造性や価値につき、やや疑念が生じてくるのは、「写真」という言葉に起因するように思えてならない。「写真」はその名の通り、写すであるから=「copy」ということになる。一方、写真家サム・エイベル氏は、「photograph」は「build」するのだという。この差はとても大きい。

photograph=写真?

「photograph」が「写真」と言われるようになった理由を調べてみると、先人がこんな情報を公開している。

写真が発明されたフランス、イギリスを中心とした欧米では、技術方式や、用いる感光材に由来する名称、発明者に由来する呼称など、写真技術の呼び 方は百花繚乱であった。それがやがて photograph に収斂し、世界中へと広まっていく。そして、日本 では中国に起源を持つ絵画用語であった「写真」という言葉が photograph の訳語として見出されてい く過程に追った。 実は極東アジア圏(台湾、香港、韓国、中国)な どは日本を経由して写真文化を取り入れていった こともあり、写真という言葉がそのまま通じるとい う。中国語には照片(シャオビエン)という写真の訳語があるが、写真もシャシンでそのままに通じる のだ。極東アジアは「写真」という名による写真の 文化圏となっているといえるのではないか。逆に西洋ではphotograph、という名の文化圏となる。極論 してしまえば、潜在的な意味合いでは「光で描く」 写真文化と「真を写す」写真文化が生まれたと言え るのではないかと考えている。

写真という名について ― 発明前夜から日本伝来まで ― 神林 優
『表現学』第3 号(2017 年3 月25 日)抜刷 大正大学表現学部表現文化学科

 写真の語源については、下記のようなものも 笠井 享氏により紹介されている。

●「写真」とは似顔絵を意味した
このフォトグラフィ以前の写真とは、(王様や身分の高い)人物の姿をそっくりに描くことを指している。日本でも天皇の写真のことをかつては「御真影」と言ったが、この単語の「真」は人の姿を言い表している。つまり「写真」とは、「真=姿」を「写」したものであり、フォトグラフィ以外でも、水墨画や浮世絵や他の絵図でも肖像画は「写真」だった。

「写真」ということば ──「写真」の語源について
── 笠井 享 ──

 日本にphotographが輸入されたとき、それを写真と訳したのは、上記のように肖像を写すのに専ら使用されたからかもしれませんね。
 ともかく、photograph=写真と訳してしまったがゆえに、
日本におけるphotographの意味が本来のものからずれてしまい、その社会的評価も変わってしまったのではないかと思うのは私だけではありません。
 上記の笠井氏もこの点、以下のように指摘しています。

日本でフォトグラフィが写真と呼ばれるようになったのは、不幸なことなのかもしれない。「写真が写すのは真実」などという大それたものではなく、単純な「光学的事象」だけであり、その写っている事象に撮影者が意図を託すのが写真的表現なのである。その状態をもって、真実を写すと解釈するのは飛躍しすぎのはず。そもそも「真実」と「光学的事象」の間の違いについて誰もきっちりと語り、定義していない。

フォトグラフィが写真と呼ばれるのではなく、最初から「光画」とか、「写影」・「写景」とか呼ばれていたら、誰も「まことを写す」などとは考えず、あるいは、縛られずに、光学的事象の描写能力を借りて、撮影者の意図を表現すること、自由奔放に自分が視た世界・光景を表現することだけに集中できたのに〜と思う。

写真」ということば ──「写真」の語源について
── 笠井 享 ──

「写真」は「copy」・・・写真の創作性を疑念させる要因

「photograph」がなぜ「写真」となったのかはともかく、「写真」と称されるがゆえの弊害はぬぐいきれないように思う。なお、ここで問題としたいのは、写真が「真実」を写すのかということではなく、「写す」という概念自体の問題である。写真機で対象の映像を撮ると、その映像がそっくりそのままフィルムに転写されるので、訳として「写す」という言葉を「photograph」に当てたことに当時は違和感はなかったのかもしれません。しかし、「写す」は、辞書によると以下のような意味である。

写す
文書・絵などを元のとおりに書き取る。まねてそのとおりに書く。転写する。模写する。「手本を―・す」「友達のレポートを―・す」
ある物をまねてそのとおりの形につくる。模造する。「竜安寺 (りょうあんじ) の石庭を―・した庭」

『デジタル大辞泉』小学館

そして、英語では「Copy」であり、そこには何らの「創作的活動」のイメージを見出せない。
 皆さんどうでしょうか。Copyしたものに対し、あなたはどの程度の価値を見出しますか? この点が「写真」の創作性を問題とする原点なのです。この「写真」=写すという行為を意味する言葉が、写真の価値を低くさせてしまっている原因ではないか。
 しかも、カメラのシャッターを押すだけで「簡単」に撮れてしまうことがそれに拍車をかけてしまっている。
 「写真」という言葉が、日本人の潜在意識下に、簡単にコピーした価値の低いものという意識を植え付けてしまっているのではなかろうか。写真撮影という行為は、フィルム時代は幾分かは敷居の高いものであり、それなりの経験を要したが、デジタル時代の今、それこそ誰でもシャッターを押すだけで、良質な写真を撮れるようになったので、上記のことはなおさらである。

しかし、写真につき、創作する余地があるのは確かであり、その創作性につき、判例も認めていることはすでに紹介した通りである。写真の価値を高めるためには、その創作の程度を高め、その人でなければ撮れない、自分ではそのような写真は撮れないと思わせるような創作性、感動を与える必要があろう。それを表すのが「photograph」=「build」・「compose」ということである。

「photograph」=「build」・「compose」

 写真というものを、「写す」ということではなく、「構築する」という概念で対応するなら、どんなことをすることになるのだろうか。
 目の前の景色を単に写し撮るという作業ではなく、得るべき画像をどのように構築するか、画像の中に何を入れ何を入れないか、入れるとするなら、どの位置に入れるか。
そもそも何を撮影すべきか。それを白黒で撮影するとか、カラーで撮影するか。その他、画像の構築のためのさまざまな要素の取捨選択。それらによって、写真を「構築」=「build」・「compose」していく。
 そいった概念が前面に打ち出されのであれば、写真というものの価値はもっと上がるのではないだろうか。

 日本の写真撮影のテキストを見ると、確かに、構図のあり方、露出の決め方、フィルターの使い方などの説明は多々あるが、それらは、写真を創作するという観点というよりは、撮影技術という観点での説明で止まっているように思える。どの世界でもどうやら日本人はスキルを磨くことが好きなようである。
 問題は、それら撮影技術をどのように使って、どのような表現をするのが良いのかであり、そういうことが重要なのではないだろうか。写真はcopyではなく「build」・「compose」ということで、写真の将来に希望が見えてくる。

 



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