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人に迷惑をかけるという事の意味を考えさせられました。

アドラー心理学の出会いを作ってくれた、岸見一郎先生のnote記事を読ませて頂いた。

私は障害児の通園施設で働いているので人を助ける側の仕事をしている。
子どもたちへの支援は勿論のこと、保護者等へも助言する機会も少なくないし、ありがたいことに感謝の言葉を頂くことも少なくない。
つい最近では、卒園した二十歳になった青年からもお礼を言われたりもした。

単純にそれはうれしいことであるし、満たされる感じも当然ある。
特に、仕事としてライフワークをしている身となると自分の行いの結果としてよい評価を頂くことは、明日の活力になる。

まぁ、現実を言えば「ありがとう」より「困ります」の方が、先生と生徒もしくは、先生と自分の子どもの親という立場なので見えずらい評価になるので、有頂天にならないようにとも戒める。

で、今回は自己肯定感てきな話ではなく、「お世話をする側」と「される側」の話である。

お世話をする仕事を選ぶぐらいなので、他人に対してお世話をすることはあまり苦を感じない。
逆に、手を貸せるような場面に出くわしたら出さずにはいられない。
この場面は逆に迷惑かもと、遠慮したら後から「もやもや」しちゃったりもする。

それは、人に対して思いを向けることは得意だが岸見先生も書かれているように、「お世話をされる」っていうのはどうも、むず痒い。
更に「迷惑をかけるかな」と感じる場面では、助けてと発信も躊躇する。

事実自分が困っている場面で周りの人が気づいてくれ、手助けをしてくれるのはちょっと、恥ずかしいとの感情も湧くが素直に「ありがとう」とその差し出した手を受け入れる。
これは、その方の自らの思いで手を差し出してくれているから。

でも、「助けて」はちょっと違う。
こちらから、手を差し伸べてほしいとお願いするのだ。
もっと言えば、自らの弱さを認めその弱さを発信して助けてもらうという事でもある。

自ら助けを求めるというのは、「人に迷惑をかける」という思いと同時に「自分の弱さの発信」でもある。

昭和に人間としては、男として弱さを見せるというは”良くないこと””男のプライド”みたいな化石のような感覚がまだ残ってないというのはうそになる。

仕事とという観点から、このことを読み解くとこんなめんどくさい話はない。

仕事はチームで業務を進めている。
「分担」と「助けて」は違う。
出来もしないに、”自分勝手なやれるはず””自分でやらないといけない”と抱え込んでしまう方が、チームレベルで考えると迷惑で効率も悪い。
もしかしたら、仕事というレベルで考えると、まだ「助けて」の発信はハードルが低いのかもしれない。
そのことで生産性が上がるからハードルが低く感じる。

これが、生活なるとその「助けて」のハードルはぐっと上がる。
生活といういのは、生きることそのものである。
そこに対して、助けてもらうということは常時誰かの手が必要になってくるという事。
”人の迷惑”でしかない。

しかし、その”人の迷惑”を岸辺一郎先生はこう文章にしている。

人に迷惑をかけることになると思う人がいるのは、生産性にしか価値を認めようとしない人がいるからだ。そのような人にとって、何もできない病者や高齢者は社会に必要のない存在である。そのように考える人でも、自分や親が病気や事故のために何も生み出せなくなったら、もはや生きる価値はないと思うのだろうか。

岸辺一郎 人に助けられて生きる

仕事ができなければ価値がないという考え方は決して自明ではない。子どもを見て生産性がないから価値がないと思う人はいないだろう。何もしていなくても子どもがただ生きていることが親を始めとしてまわりの大人にとって嬉しい。人間の価値は行動ではなく存在、生きていることにある。生きていることだけで価値がある。子どもについてそう思えるのなら、大人も同じだと考えていけない理由はない。

岸辺一郎 人に助けられて生きる

まさしくその通りである。
生きていること=命がそこにあることに意味がある。

この文章を読んである、20代の時に出会った、重度心身障害児の親の言葉を思い出した。

「私にとっては、あなたが生きてくれているだけで幸せだと感じている」という言葉。

この時は、よく分からなかったが「究極の母子愛だなぁ」
ぐらいしか理解できなかったのだが、岸辺先生の文章を読んで、数十年の時間を経て意味が分かった。

生産性というあまりにも自分の中にしみこんでいる感覚
何かを生み出すことこそに価値があるという感覚が、知らず知らずのうちにしみ込んでいたということ。

そして、最初の文章に戻るのだが、私のように「お世話好き」は確実にいる。
もしかしたら、”好き”ではなく”元来人間というのはそういうもの”なのかもしれない。

人間は弱いから集団で生活を行い、社会という盾を構築した。
この社会のシステム自体が助け合いシステムだ。

そうはいっても、やっぱり助けてのハードルは高いが、まずは小さな声で助けと言い始めようと思う。

ダメな私でもいいじゃんね( ´艸`)

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