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Carsick Cars とその時代(1)

中国のインディーロックの基盤がポストパンクであることは、あえて言うまでもないことではあるのだが、ひととおりの説明くらいはあった方がいいはずだ。
そこで問題は、いったいどこから始めるべきか、ということになる。最新の流行アーティストや注目の新進バンドを紹介するのも有用には違いないが、まずはこの国におけるポストパンクの大まかな見取り図を提供するのが親切なように思われる。

そうするとなると、中国のロック史あるいは流行音楽事情に触れなくてはならない気がするし、そもそもポストパンクって何、というところから明らかにする必要もあるかも知れない。まだるっこしい。

いろいろと検討してみたところ、とりあえず Carsick Cars の話から始めるのが適当だろう、ということで決着した。ポストパンクというジャンルについては、まあそういうジャンルがあるんだなあ、といった程度の認識で充分だろう。

Carsick Cars の位置(絶頂にある)

その存在によってロックの歴史を塗り替えるようなバンドは中国にはまだ少ないが、Carsick Cars はその稀有な一例だ。この国ではじめて「ポストパンク」のスタイルを取り入れたバンドではないにもかかわらず、その登場はこの国で起きた最大の革命だった。彼らの及ぼした影響はポストパンクというニッチに留まらず、現在活動しているすべてのバンドにまで及んでいる。
ここで人は、中国のインディーロック・シーン全体をも一望する視座を獲得することになるだろう。

CSC概要

Carsick Cars は、中国北京を拠点に活動するインディーロック・バンドである。2005年3月、北京理工大学に通う3人の学生によって結成された。
The Velvet Underground や Suicide、Sonic Youth などニューヨークのバンドのスタイルを受け継ぎ、また Steve Reich、Glenn Branca といった現代音楽家たちからも強く影響を受けている。
結成からいくらも経たないうちに、No Beijing 運動の中心バンドとして活躍する。この運動によって巻き起こったシーンの革新は、北京インディロックの黄金時代とも呼ばれている。
2007年にリリースされたデビューアルバムはインディ作品としては異例のヒットを記録し、国内で多くの若者がバンドを組むきっかけとなるなど、後続へ多大な影響を与えている。
また、同年の Sonic Youth 初の中国公演ではその前座に抜擢され(国家の事情により実現はしなかったが)、さらに同バンドのヨーロッパ・ツアーにも随伴しオープニングアクトを務めた。
その後も All Tomorrow's PartiesPrimaveraSXSW への参加、幾度にもわたる海外ツアーを通じ、国際的な評価もすこぶる高く、まず間違いなく中国を代表するバンドのひとつである。

メンバーはギタリストの張守望、ベーシストの李維思、ドラマーの李青。数度のメンバーチェンジを経た後、2017年からは再び上記のオリジナルラインナップに回帰している。それぞれ前衛音楽、実験音楽の分野でも活動しており、その成果はしばしば本体である Carsick Cars へとフィードバックされている。
リードシンガー兼ギタリストの張守望は即興音楽家として舞台に立つことも多く、電子音楽ユニット White での活動も続けている。この頃は若手アーティストのプロデュースも手がけている。
ドラマーの李青とベーシストの李維思は、これまた北京を代表するポストパンク・バンド Snapline のメンバーでもあり、ときおり前衛音楽を発表したりしている。
李青は、中国を代表するインディー・レーベル兵馬司 Maybe Mars の立ち上げにも関わっており、さらに赤瞳音楽 Ruby Eyes Records の代表として次々と有望な若手音楽家をシーンへと送り出している。

Carsick Cars の根本概念

彼らの属する世代は80后(1980年以降に生まれた世代)と呼ばれ、市場経済の爆発的な発展とともに育った。インターネットを通じて海外の音楽や情報に直接触れることのできた最初の世代でもある。
海賊盤やP2Pでのダウンロードが主流で、ストリーミング・サービスが普及する以前、当局によるインターネット規制もまだ緩やかだった時代、先行する世代の価値観やその理想主義をほとんど共有していない彼らは、旧来の音楽に自分たちの声を反映させる何ものも見いだすことができなかった。その違いはもはや断絶と言っていいほどだった。
いまだシーンと呼べるようなものが存在せず、パンクとメタルがはびこる北京で、手本とする先行バンドを持たない彼らはほぼ独力で自らのスタイルを確立した。
The Velvet Underground と Sonic Youth によって駆り立てられた彼らの前衛音楽への偏愛は、周囲の人間たちの振る舞いにも大きな影響を与えた。しっくり来る音楽がないのであれば、自分たちで作ればいい。このDIYテーゼに従い、彼らとその仲間たちは新しいサウンドを自らの手で生み出し、単なる愛好者の集団に過ぎなかったものを「シーン」へと作りかえていった。
Carsick Cars の音楽を聴いた多くの若者たちが、それぞれ楽器を手に取りバンドを組んだ。2007年のファースト・アルバムの発売により、その波紋を北京から中国全土へと拡がる。「すぐに真似ができる簡単な曲ばかりだったからね」
これが今日の中国のインディーロック・シーンの下地を作っている。刈り取ったのは他の人間かも知れないが、地を耕し種を蒔いたのは Carsick Cars なのだ。

今なお根強い人気を誇る初期の代表曲『中南海』は、この国のアンセムと呼ばれる条件をすべて満たしている。記憶に残るメロディ、簡素な構成、単純な歌詞、溢れんばかりのノイズ。この曲が演奏されるや、観客たちは狂騒に駆られ、煙草を舞台へと投げ入れた(「中南海」は中国で一般的な煙草の銘柄)。今やおとぎ話に過ぎないとはいえ、彼らがいかなる存在であったかを示す寓話と言える。

Carsick Cars at D-22, Beijing

Carsick Cars の作品とその生涯

はじまりに The Velvet Underground があった

2003年のある日、北京に住む高校生、張守望は、街をうろうろしているところを外国人の男性に声を掛けられた。「The Velvet Underground を知っているんですか?」と、その男は言った。少年はその日、アンディ・ウォーホル好きだった彼は、有名なバナナのイラストが描かれたTシャツを着ていたのだった。普通のロックについてはいくらか知っていたものの、そのバンドについては何も知らなかった。
その外国人、北京の大学で教鞭を執るアメリカ人は、少年の情けない答えを聞くと彼を手近なCDショップへと連行た。これが、張守望と The Velvet  Underground  との初接触である。
当時の中国では、海外のポピュラー音楽は明確に禁止されていたわけではなかったものの、正規のルートでは流通していなかった。インターネットが普及しはじめていた時期ではあったが、人々が西洋の音楽を聴く主な手段は「打口」と呼ばれる、再生プラスチック原料という名目で輸入されたカセットテープやCDだった。要するに海賊盤である。このとき少年が手に入れたアルバムも、例に漏れず打口CDだった。
はじめてVUを聴いたときの衝撃を、ギタリストは次のように語っている、「これはまさに僕らのための音楽だと感じた」と。それまで彼が聴いてきた流行音楽やロック音楽からは得られなかった感覚だった。
その後、張守望は大学教授(名前を Michael Pettis といった) から地下音楽の手ほどきを受けつつ、CDショップやインターネット掲示板を通じて知り合った友人らと情報を交換し、暇を作ってはインディバンドのライブへと足を運ぶようになる。
また、この出会いは彼が歩むこととなる音楽家への道の出発点ともなった。SARSの影響でロックダウンが始まり学校が休校になると、彼はVUを手本にギターの練習に時間を費やした(以前にもギターに手を染めたことはあったが、教えてくれたのがメタラーだったため、瞬く間に熱意を失ってしまっていたのだ)。バンドのファースト・アルバムに収録されている曲のいくつかは、この時期に書かれたものだという。

Carsick Cars 結成のあらまし

2004年、大学に進学した張守望はさっそくバンドを始めるつもりでいたが、学校で活動していたバンドがメタルばかりだったことに落胆し、同志を求めて大学の電子掲示板にひとつの投稿をする。
「Sonic Youth や Suicideを好きな人はいませんか?」
これに返信をしたのが、後にバンドのベーシストとなる3年生の李維思だった。ニッチな音楽への嗜好を共有する2人は Psycho Cars という名を掲げて大学内のスタジオで活動を開始した。

3人目のメンバーとなる人物も、同じ北京理工大学の学生だった。
当時4年生だった李青は、大学のバンドサークルに所属しながら、他校に通う幼なじみと二人で Snapline(当時は Radiohead の曲名を由来とする Airbag と名乗っていたかも知れない)というバンドをやっていたのだが、内向的な性格である上に Sonic Youth を好んでいたことが災いし、4年経ってもベースを弾く人間を見つけられずにいた(周りはメタラーくらいしかいなったのだ)。ドラムはドラムマシンで賄うことができた。しかし、専任のベーシストはどうしても必要だと彼女は考えていた。
卒業まで残りわずかという時期、李青はようやく積極的な行動を起こす。大学のネット掲示板にコメントすることを決意したのだ。
2005年3月、掲示板経由で連絡をとったベーシスト候補と会うため、彼女は大学のリハーサルスタジオの一室を訪れた。ただでさえ狭いスタジオの床は、見たこともないようなエフェクターで埋め尽くされ、足の踏み場もなかった。彼女は否応なくドラムセットの椅子の上で彼らの演奏を見学することになった。

この頃、李維思と張守望の二人は、練習に参加せず連絡もさっぱりつかなくなっていたドラマーに業を煮やし、新たなドラマーを採用しようと考えていた。そこへ首尾よく連絡をとってきたのが李青だったのである。
思惑通り彼女をドラムセットに座らせた男たちは、ひとつの提案を持ちかけた。「よければちょっとドラム叩いてくれない?」と。彼女がドラムを叩けることは、まあ、事前にそうしたやりとりがあったのだろう。
この日、3人は一緒に Sunday Morning を演奏し、そのまま彼女は彼らのバンドへ引きずり込まれ、かわりに李維思も彼女のバンドに正式なベーシストとして参加することに決まる。万事すべてが丸く収まり、めでたしめでたしである。

snapline

正式なドラマーが決まり、名前も Carsick Cars と改め、いよいよ本格的な活動を開始した3人組だったが、大学の他のバンドたちとの関係はあまり芳しいものではなかったようだ。実験音楽や前衛音楽に馴染みのないメタルヘッドたちは、荒っぽく風変わりなノイズだらけの演奏をする一団に機材を壊されてしまうのではないかと心配していたのだ。

Carsick Cars は、スタジオに友人らを招いて何度かの小規模なライブを行った後、What Bar という小さなバーで初めてのギグを行う。この店は彼らのような風変わりなバンドに演奏を許してくれる数少ない会場の一つだった。この後も彼らはたびたびここでライブを行うことになる。
この頃のバンドのレパートリーは、数曲のオリジナルと、Joy Division や The Cure といったポストパンク・バンドのカバーが中心だった。
このとき Snapline も同じ舞台に立ち、張守望がサポートメンバーとしてドラムを叩いた(バンドのドラムレス編成はその後も変わることはなかった)。

はじめてのギグから間もない5月28日、北京の老舗ライブバー無名高地で Joy Division トリビュート・イベントが開かれた。Carsick Cars はそのオープニングアクトとして、はじめて北京のロックファンの前に姿を現す。
このギグには、重塑雕像的权利(Re-TROS)新褲子(New Pants)Joyside といった、北京で活動する一級の独立バンドが顔を揃えており、すでにこの時期、都市がポストパンクへの傾向を見せていたことがわかる。

指揮者と評論家と No Beijing のはじまり

2005年の夏、Glenn Branca の交響楽団で指揮者を務めていた John Myers が、中国の古典音楽を研究するため北京に滞在していた。彼は昼に自分の研究を進めるかたわら、夜には首都の前衛音楽シーンに出入りしていた。
どういう成り行きがあったのかは不明だが(Michael Pettis の仲介があったと考えるのが自然だろう)、張守望が友人たちとともに結成した Glenn Branca トリビュート・バンド White のライブに、Myers も参加している。あるいは、Myers との共演のために White が結成されたのかも知れない。
これが縁となったのか、張守望は翌2006年に単身訪れたニューヨークで Glenn Branca の Symphony No.13 公演にギタリストとして参加し、また、多くの伝説級ミュージシャンの知遇を得る。たとえば Philip Grass とか。

さて、こうした種類の音楽を聴く人間は、どこであっても少数派である。コミュニティもこじんまりとしたものだ。ニューヨークのアンダーグラウンド音楽に範をとった大学生が、国内前衛音楽の第一人者と関わり合うのも当然の展開だった。9月になると、White は実験音楽イベント Waterland Kwanyin でライブを行う。招いたのは、国内屈指のロック評論家であると同時に前衛音楽集団 Sub Jam を主宰する顔峻。彼がキュレーターを務める Mini MIDI Festival へも参加している。

この評論家は、White とそれを取り巻く学生らによる新たな潮流を世間へと知らしめるべく、ひとつの計画を立てる。No Beijing の始まりである。

10月14日、「No Beijing」の名を冠する初めてのギグが、彼らの馴染みの会場 What Bar で開催された。この名称が No New York のもじりであることは誰の目にも明らかだが、発案者の張守望によると、ノーウェーブ運動への憧憬というより、むしろ新しい世代の登場を印象づける意図があったという。
このときの演奏は、2枚組のCD-Rとしてリリースされ、オンライン上でも公開された(残念なことに現在では聴くことはかなり難しいのだが、何でもひどく音が悪いらしい)。
同じ月に、Sub Jam のバックアップを受けた Carsick Cars、Snapline、そして彼らの友人である后海大鯊魚の3バンドは、杭州と上海の2都市で No Beijing! Tour と題したシリーズギグを行う。北京からやって来た新しい潮流を一目見ようと、上海の会場には100人以上の観衆が詰めかけた(杭州では期待していたほど客が集まらなかったようだ)。

Car-Sick Cars in Hangzhou

12月18日、後に No Beijing 運動の中核とみなされる4バンド、Carsick Cars、Snapline、后海大鯊魚、哪咤が、揃って愚公移山のステージに立った。いずれも結成から1年に満たないバンドだった。

12月18日の No Beijing 公演のポスター。FUHAN は后海大鲨鱼のボーカリストでもある。

名前からノーウェーブを期待していたにもかかわらず出てきたのがロックバンドだったと落胆する者もあったらしい(微笑ましい逸話)。しかし、この後 No Beijing の名は北京に巻き起こる新しいロック運動として認知されるようになる。

インディーロックの精髄からのシーンの誕生

とはいえ、実際のところ彼らの演奏していたのはニッチな地下の音楽だった。演奏を望むアーティストの数は常に膨大で、その反面、出演できる会場は不足していた。数少ない出演枠はその多くがすでに塞がっており、集客の望めないバンドには競争への参加も難しかった。
張守望にVUを伝えた件のアメリカ人 Michael Pettis は、この問題を解決すべく、知人たちの協力を得て D-22 という店を五道口にオープンさせる。
このライブバーでは、音楽に対する情熱と楽器を弾く伎倆さえあれば、無名だろうと何でもステージに立つことが許された。出演者にはギャラが支払われ、おまけにその日飲む酒がサービスされるという待遇も、当時の水準としては破格だった。No Beijing とその周囲のバンドは、夜な夜なこのバーに集まりギグを行い、ライブを見た客が後日アーティストとしてステージに立つことも稀ではなかった。
オープンの翌年には、前衛的なアプローチを志向する学生たちの手による定期イベント Zoomin' Night が始まる。まだまだ小規模ではあったが、「D-22シーン」は北京における台風の目となっていった。

当時の北京で地下音楽シーンに一役買っていた外国人は Pettis や Myers に限らなかった。主流の音楽に満足できない外国人はこの町で独特のコミュニティを形成していた。ある者はパーティーの盛り上げ役となり、またある者は自らバンドを組み、この国の生まれたばかりのインディロックシーンを牽引する仕事を買って出ていた。

未知の音楽や勃興するシーンの熱気に惹きつけられ、北京に注目を寄せる世界的なアーティストもぼちぼち現れる。
かつて 『No New York』をプロデュースした Brian Eno は、何かのレコーディングのために北京を訪れ、その際たまたま隣のスタジオで行われていた重塑雕像的权利の収録に飛び入りで参加している。

2006年には、北京で生活していた Einstürzende NeubautenBlixa Bargeld は、White(この頃には張守望と元 Hang on the Box沈静によるデュオ編成となっていた)のライブに感銘を受け、プロデュースを申し出る(実際に翌年レコーディングが行われた)。

Public Image Ltd. のドラマーとして知られる Martin Atkins は、北京を訪れた際にガイドの勧めで D-22 へと足を運び、若者たちの音楽に魅了された。特に Snapline はお気に入りだったようで、何だかんだと理由をつけて演奏を録音し、メンバーに断りもないまま勝手にアルバムを制作してしまうほどの入れ込みようだった。これは後にバンドのファースト・アルバムとして正式にリリースされている。
Atkins は他にも多くのバンドと契約を交わしたものの、どうしたことかあらかた反故にされている。今までのところ、原因は明らかになっていない。
このときの様子は、ドキュメンタリー映画『16 Days in China 』に収められ、録音された音源は Atkins の所有するレーベル Invisible Records からリリースされた。今でも主な配信プラットフォームで聴くことができる。

ファースト・アルバムとインディー・レーベル

2006年、Carsick Cars は自分たちのアルバムを作ることを決意し、そのプロデュースを P.K.14 のフロントマン楊海崧に依頼する。
楊にとってプロデュースという仕事は経験したことがなかったが、彼はレコーディングにおけるプロデューサーの重要性を認識していたし、自分自身の経験を若い世代に伝える良い機会でもあると考え、引き受けることにした。これを皮切りに、楊はプロデューサーとして無数の若いバンドのデビューをプロデューサーとしてサポートしていくことになる。

どうにかして費用を工面し(Michael Pettis の名はここにも現れている)楊海崧との共同作業を終えた若者たちは、当時としては中国のほぼ唯一のインディー・レーベル 摩登天空 Modern Sky に完成したアルバムを持ち込んだ。そこで提示された条件は、端金での買い取りという彼らにとって承服しかねるものだった。3人組は憤然としてレーベルに背を向ける。
この話を聞いたプロデューサーとライブハウスのオーナーは、自分たちでインディペンデント・レーベルを設立してはどうかと提案した。これが後の兵馬司 Maybe Mars の起こりである。
Pettis みずからそのオーナーに収まったインディーレーベルは、彼のもう一つの事業、D-22 と同様、採算を度外視し才能あるアーティストのサポートに徹するという方針を掲げ、シーンの発展に大きく寄与する。初期のスタッフの中には、李青もその名を連ねている。

9月27日、レーベルのリリース第1弾として、 Joyside と Snapline のアルバムと並んで Carsick Carsの同名タイトルが発行される。長らく北京の地下で名を馳せていた Joyside の参加は、無名の新興レーベルがこの地で音楽ファンの信用を得る助けとなったはずだ。

デビュー作品の反響は飛び抜けたものだった。当時のインディー音楽としては異例の数を売り上げ、国内全土の若者にバンドの結成を決意させた。

Sonic Youth からの旅への誘い

Carsick Cars がファースト・アルバムをレコーディングしていた頃、彼らが敬愛する Sonic Youth の初の中国ツアーが決まった。このニューヨークのロッカーは、プロモーターの提案したバンドを「商業的すぎる」という理由で却下し、Carsick Cars をオープニングアクトに指名する。Blixia の推薦があったのかも知れないし、Eliot Sharp が仲介したのかも知れない、ということで、その経緯はわかっていない。事情はさておき、この報に北京の若者たちが躍りあがったことはまず間違いない。

ところが、公演の当日に事態は思わぬ展開を見せる。彼らがステージに上がり演奏を始めようとした矢先、当局の命令により出演は突然中止されられたのである。Sonic Youth のメンバーによる過去の政治的な発言がその原因だと噂されたが、実際のところは藪の中だ。

Sonic Youth の中国公演の翌月、White のアルバム制作のため張守望は E. Neubauten のスタジオがあるベルリンへと渡った。録音を終えた彼は、帰途のついでにニューヨークへと立ち寄り、そこで Sonic Youth のメンバーからヨーロッパ・ツアーへの参加を誘われる。
2007年8月、国内でのツアーを終えた Carsick Cars の3人は、プレスされたばかりのファースト・アルバムを携え初の国外ツアーへと旅立った。

黄金時代、セカンド・アルバムとツアーに邁進する日々

翌年、バンドは再び Sonic Youth の招きを受け、ロンドンで開催された All Tomorrow's Parties に出演する。この頃までに Carsick Cars は国外の批評家から称賛を受け、西洋でもっとも注目される中国のバンドとなってなっていた。Sonic Youth 効果は絶大だ。
この頃、D-22は CBGB や Hacienda とも比較され、北京アンダーグラウンドはその絶頂にあった。

2009年、バンドは元 Theoretical Girls のメンバー Wharton Tiers をプロデューサーに迎え、セカンド・アルバムの制作にとりかかる。また、この年、バンドはかつての哪咤のボーカリスト率いる嘎調とともに全国16都市を巡回する大規模なツアーを開催し、その合間には再びヨーロッパへと赴いて Primavera にも出演している。

この年の6月に衝撃的なデビュー・アルバムに続くセカンド・アルバム 『You Can Listen, You Can Talk』がリリースされる。発表前から大きな期待とプレッシャーを受けていたものの、3人組は聴衆に対して見事な傑作を届けることでこれに応えた。

10月にはヨーロッパ・ツアーを敢行し、11月には P.K.14、小河とともに、アメリカを巡回する中国インディー音楽のショーケースにも参加した。なんとも慌ただしい1年である。

2010年に入ってもその盛んな活動がやむことはなく、国内外で多くのライブに出演している。Maybe Mars の企画による China Invasion Tour 2010 では、Snapline、P.K.14、AV大久保といったレーベルの看板バンドともに1ヶ月に渡るアメリカ・ツアーを行い、その一環としてオースティンの SXSW にも参加している。

どちらかと言うとサイド・プロジェクトの方が面白い

こうした多忙な時分にあっても、Carsick Cars のメンバーは同時に様々なサイド・プロジェクトを進行させている。その多くは前衛音楽、実験音楽といったロック音楽とはかけ離れた分野だ。その成果は、本体である Carsick Cars にフィードバックされることもあったが、されないこともしばしばだった。

張守望はソロで即興音楽家としても活動しており、その経歴はバンドと同じくらい長い。Glenn Branca トリビュート・バンドとして始まった White は、彼の電子音楽ユニットという色合いを強め(白なのに)、アルバムを1枚発表したきりで活動を停止したものの、他にも White-2j 、White No.2、White Ensemble と似たような名前のプロジェクトもいろいろある。なかでも嘎調のドラマー王旭とのデュオ White+ は2010年に開始され、2023年の今でもその活動は続いている。また、前衛音楽に特化した Maybe Mars のサブレーベル、Maybe Noise のディレクターを務めていた時期もある。

李維思と李青の2人は、Snapline としての活動のほか、実験電子音楽ユニット Soviet Pop を立ち上げ、2010年にはアルバムを発表している。
こうした活動の数々は、彼らが「ロックンロール」や「オルタナティヴ」の狂信者ではないことのひとつの証左と言えるだろう。Carsick Cars というバンドも彼らにとっては数多ある表現形態のひとつに過ぎず、また同時に、「アヴァンギャルド」や「エクスペリメンタル」なども、彼らにとっては表現のための手法のひとつに過ぎないのかも知れない。

初期の Carsick Cars の終わり

Last show of Carsick Car startup members. (Zhang Shouwang, Li Qing, Li Wei)
Photo by Houzi2 https://flic.kr/p/94uZAo

国内外で知名度と評価を高めていたバンドだったが、2010年11月16日、北京で The Raveonettes のライブで前座を務めた夜、ネット上で李青と李維思、創設メンバー2人の脱退を発表した。音楽上の理念の相違によるものと説明されたが、過酷なツアーやライブに嫌気が差していたことも一因だったのかも知れないし、単純にバンドに飽きてきたという可能性もある。ともあれ真相は当事者の胸の内に秘められており、2人は Snapline 及び自身のユニット Soviet Pop に傾注するようになる。

ややあって、 BirdstrikingBoyz & Girl で活動する何凡と斑斑(林以樂)の加入がいつの間にか決まり、その後も Carsick Cars の活動は継続されていく。

つづく

主な参考文献

https://www.sohu.com/a/382175741_120066802
https://geistesgeschichte.amebaownd.com/posts/6752274/
http://art.china.cn/wutai/2009-08/21/content_3087027_2.htm
http://joshfeola.com/blog/mp3-monday-no-beijing/
http://joshfeola.com/blog/culture-bureau-zhang-shouwang/
https://www.zhihu.com/topic/19611975/hot
https://zhuanlan.zhihu.com/p/113521484
https://www.last.fm/zh/music/Carsick+Cars/+wiki
https://ent.sina.cn/music/rock/2009-01-08/detail-iawzunex7419142.d.html
https://laodanwei.org/wp/music-2/on_zhang_shouwang.php
https://drownedinsound.com/in_depth/4147269-a-musical-revolution--the-china-wave
https://daily.bandcamp.com/scene-report/chinese-post-punk-list
https://www.caixinglobal.com/2017-06-10/godfather-of-beijings-indie-music-scene-dissects-chinas-experimental-soundscape-101100205.html
https://post-punk.com/post-punk-in-china/

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