エッセイ#1「我が家のナイトルーティン」

「やめてくれ」

今夜も夫が私に言い放つ。私だけが楽しんでいる夫婦の日課である。

私の好きな匂いのひとつが夫である。と言っても、テレビCMみたいに、風になびく髪から、ほのかに漂うフローラルなシャンプーの香りがするわけではない。むしろ夫は面倒くさがりで、二日に一回しか頭を洗わないし、隙あらば風呂に入らずベッドにもぐり込もうとする、とんでもない男である。キレイ好きな私にとって、永遠の敵のはずなのに、なぜか夫の匂いが大好きと言っても過言ではないのだ。

夫の匂いを嗅いでみると、なぜだろう。子供の頃にずっと大切にしていた、少し縫い目がほつれたぬいぐるみのような、両親や兄弟と過ごした築年数の経つ実家の床の間や畳のような、懐かしさが込み上げてホッとする匂いがするのである。とにかく不思議と落ち着くのだ。本当にこの夫の匂いはズルい。反則だ。体臭で私を手なづけてしまうとは恐ろしい男だ。

以前、我が家では犬を飼っていた。ミニチュア・ダックスフンドの雄犬で、名前はバロン。十七年と六ヶ月の大往生でこの世を去ってしまったが、愛犬バロンも夫の匂いが大好きだったようだ。散歩に出かける時、私の靴には見向きもしないのに、夫の靴に対しては熱心に匂いを嗅ぎまわり、夫に抱き上げてもらうと、顔を必死に動かして擦り付けては鼻をクークー鳴らし、パタパタとちぎれそうになるぐらいシッポを勢いよく振って、感情を爆発させていた。夫は、つぶらな瞳の愛犬までも体臭で手なづけていたのである。

残念ながら犬と人間では言葉の壁があり、夫の匂いの魅力について、バロンと熱く語り合うことは叶わなかったが、この件に関しては一番の理解者であり、よきライバルだったと今でも思っている。

我が家は夕食を終えた後がくつろぎタイム。夫とふたり並んでソファに座り、用意しておいたデザートを食べながら、録画したドラマを観る時間となっている。私は隙をみて、そっと夫のうなじの匂いを嗅いでみる。「やめろ、お前はバロンか」と声を上げながらも、夫は決して逃げない。夫とのこの楽しい日課が今夜も始まるのである。

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