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お金を求めていくと人間はどうなるか

戦後の1960年~1990年の30年間、日本のGDPは8.8倍と非常に伸びました。そして1990年のバブルが終わった頃には、本当に豊かになりました。(実感のない方もおられるとは思いますが)

大抵の家電製品や自動車なども購入でき、1家に1台から、それぞれに1台という時代もありました。

もちろん、幸福はお金では買えませんが、「石油ストーブ1台買うのも大変だ」という頃に比べれば、現在も良い状況と言えると思います。

例えば、お風呂が自分の家にないから、風邪をひいても銭湯に行かなきゃいけないというのは、そこそこ辛かったはずです。

経済成長というのは、そういう意味では良かったと思います。

それが、次の1990年~2020年の30年間はGDPの伸びがほぼ0です。私たちの給料はずっと同じなので当然です。

最近では世界2位だったGDPが27位で、台湾が24位なので、「台湾よりも日本が貧乏だ」ということになったわけです。

外国ではコンビニみたいなサンドイッチが1,500円で、日本だと高くても400円くらいなので、もう日本人は外国でサンドイッチも食べられないというようなことも言われるようになってきました。

この原因にはいろいろなものがあります。

政治、政策の失敗もそのうちの1つですが、パッと見で第一の原因は「それぞれがお金を求めてしまった」というところでしょう。

「いやいや、アメリカやヨーロッパもお金を求めてるけれど、全然貧乏になってないじゃないか」

このように思うかもしれませんが、元々お金を求める文化圏は、「お金を求めてお金になる社会構造をしています」それは、全員がお金持ちになれない社会構造です。

日本は、力社会ではなくてエンタングルメント社会です。力社会は力(お金・身体・権力・知恵など)があればあるほど偉い人間だという社会通念があります。

現代は小学校からそれを教えています。成績が良い、足が速い、ピアノができる、優等生・劣等生という考え方は力社会のものです。

本来、「力ある人が人間的に立派なわけではない」というのを見抜いたのは日本人です。

「人として立派であることと社会的にその人が成功するかというのは別物、という考え方を平素にした方が、社会自体がより立派になっていく」と考えられてきました。

トップに立っているからといって、その人が人間として偉いという意味ではなく、人間として偉いのは、「かけがえのない人」という考え方があります。

「かけがえのない人」の定義もあります。

病気をすると周りの人が困る、亡くなったらみんなが嘆く人、これがかけがえのない人の定義です。

この考え方でいくと、人間として立派な人、偉い人は、一般的に言えば「人のお世話をする人」のことになります。

その「かけがえのない人」で社会を構成すると、なぜかその社会は栄えます。

お金を求める力の社会で力が上の人がいい学校に入って、いい成績で、社長になる。

これがいいという社会にすると、大勢の人が貧乏になるのは、その人だけに注目するか、全体を注目するかの違いです。

中国、ヨーロッパ、アメリカはもちろん、世界中が力社会です。

力社会ということは、全体としては力のある人が上に行きます。そこでは上に行く人が力があるから価値があると考えるので、お金もどんどんそこに行ってしまうということになります。

極端になると、この統計は難しいのですが、アメリカは一応、上位1%~5%の人がアメリカ全体の富の半分を持っているということになっています。

ただそれが、力社会では当たり前のことなのです。「それが実現できるからする」ということです。

一人一人が競争をして、力のある方にお金が行くというのをずっと続けるわけです。

そのような世の中を見ていれば、誰でも錯覚してしまいます。「力さえあればお金でも何でも手に入る」このような考え方はよくあることだと思います。

その実は、社会に枠組みがあるということです。東大は1個しかありません。皆がたくさん勉強をしても東大が2つに増えたりもしません。

世の中の富も同じです。首相も1人です。社長も1人です。

ですから人は何を錯覚しているのかというと、「お金を求めてできるだけ優秀になろう」「自分が他人よりも優秀になろう」と思うと、会社の社長になる人が1人、役員が10人~20人で、課長が何人と決まっていたら、全員が優秀を目指せば、本人のお金の量は何も変わりません。

つまり、「会社に入るお金」が増えないとダメなのです。それでは、何を目指して会社や社会を作るべきかというと、「会社や社会全体が良くなるように作る」ということです。

「それは同じことを言ってるんじゃないの?」と思うかもしれませんが違います。

会社や社会、人間というのは、全体の力を上げる時は「全体が良くなる」と思ってやらないと良くならないようにできているのです。

「自分が良くなろう」という人がバラバラに集まっていても、その相和が良くなる時はないのです。

結局アメリカも階級性になっています。上の方に5%というエスタブリッシュメントです。

上になることが目的なので、上になったらそこで満足をして、上の人同士で切磋琢磨しなくなります。

今度は下のグループ95%です。下のグループに入った人は、そこからどう足掻いても上には行けません。

なぜなら、上の5%はもう決まった枠しかありませんので、そうなると「まあいいや酒でも飲むか」「博打を打つか」このようになるのが人間です。

その人たちは正しいです。

なぜなら、やっても効果のないことを頑張ってやるというのは、あまり適切じゃないというか、人間らしくないことだからです。

全体が良くなれば良くなると、日本は元々そうしていました。これがエンタングルメント社会です。

「良いリーダーがいない」「集団のために個人が我慢をするのか」このように皆が文句を言うのは当たり前です。

しかし、誰が上がっていくとかではなくて、集団のために個人が能力を発揮するから集団が上がれるという考え方もできます。

「自分だけが上になればいい」ということをやると競争力は強くります。競争力の集合体の最たるものが戦争ですから、競争力が強ければ戦争が多くなるということです。

UKは日本の100倍の数戦争をしていますし、ヨーロッパが戦争で世界中を植民地にしたというのは理屈に合います。

日本では、サイフが落ちてたらそこに名前も書いてないのに交番に届けます。それを聞くとほとんどの外国人はびっくりします。お金を拾ったらポケットに入れてしまうので。

私たちは一人一人で生きているのではないのですが、一人一人で生きてるように錯覚をしているだけです。

例えば、人々が喧嘩をしながら「あなたがやりなさい」「お前がやれよ」とやり合うよりも、それぞれが「お互いのやるべきことをどんどんやってあげよう」と思う方が良いに決まっていると思います。もちろんそれは、友達でも会社でも同じです。

会社も、日本はもともと「従業員のもの」と考えていて、そこで働いてる人だけがみんなで心を合わせるというのが常です。

アメリカやヨーロッパは株主のもので、それぞれがお金で契約をしていますから、工場の現場などでも隣の工員がボルトを閉め忘れてもこっちの工員は知らん顔です。

ようは自分と会社しか繋がってないのです。極端には、自分と株主としか繋がりがないということです。

本来、日本は横の繋がりがありますから、「そこのボルトまだ閉めてないんじゃない?」というようになります。

すると何が良くなるのかというと、製品が良くなるわけです。製品が良くなれば会社が繁栄します。

つまり、一人一人が自分自身で自分のことを考えてやる社会より、エンタングルメントの考え方でやっていこうと思う社会の方が、結局は豊かになるというのが日本人の発明なのです。

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