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マルチチュードのタクティカルアーバニズム

注意:この記事は哲学・政治哲学・デザインに関する諸概念が用いられていますが、誤用やミスリードが多く含まれていることが頻繁にあると思いますので、悪しからず。特に政治哲学や、都市計画に一家言を持ちのかたはブラウザバックをお勧めします。

マルチチュードと「共」

マルチチュードという概念があります、アメリカの政治哲学者、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートという方々が提唱したものです。彼らは現在の複雑なネットワーク、インターネットに限らず国家の連合や国際団体などによって生じている巨大な権力を<帝国>と称して、その権力に対抗する人々の集団をマルチチュードとその集合によって発生するものを「共」と述べました。

僕が、近年のマルチチュードの事例としてあげられると考えているのが、BLMなどの市民による連帯と権力への抵抗です。BLMでは、InstagramなどSNS上で真っ黒の画像をアップロードすることで連帯を示したり、Facebookやチャットサービスである場所に集うような動きが見られました。このように強大な権力を作っているネットワークそのものを転用することで「共」を形成し権力への抵抗運動を行なっていくことがマルチチュードの活動の大きな特徴です。

もう一つBLMで現れていた特徴が人種による連帯です。近代の市民の抵抗運動は階級的な闘争が主たる共通要素でした。しかしマルチチュードでは非物質的な生産が経済の活動の主たる場になった現在には労働者階級の連帯ではなく、人種やジェンダーなどのより個人の共通要項によって「共」を作ることを想定されています。

さてこのテキストではこのようなマルチチュードによる「共」が権力に抵抗する術の一つの可能性としてのタクティカルアーバニズムを提唱してみるという試みをしたいと思います。

タクティカルアーバニズムのおさらい

タクティカルアーバニズムとは市民による公共空間への介入によって、環境を改変する取り組みです。例えば自動車のパーキングにベンチや机をおいてワーキングエリアにすることや、交差点などを自動車のためではなく人のために使える場所に書き換えるような取り組みが行われています。

ちなみに過去ノートでも説明していますのでよければこちらもどうぞ。

都市や公共は近代では、ある特定の都市建築家や行政がトップダウン的に制作する戦略的な方向性が主たる方法でしたが、そこへのカウンターとして戦術的に、ボトムアップで都市を作ることで、より市民が主体となる暮らしのあり方を作ることができるというのがタクティカルアーバニズムの大きな特徴です。

日本における市民の公共への介入

一方で、日本においてはこのような活動が起こりにくいことは問題意識として多く語られてきました。パブリックな場所や施設が、公共サービスとして受けられる空気の中では、市民が抱える課題感はサービスの不足として回収されてしまい、市民が主体的に問題に対応するような意識に直結しにくい部分があります。しかしながら不満の矛先が見えにくい時にそれらの抑圧された感情は、当事者に向くことが多く、例えば自粛警察のような動きや、UberEatsへの嫌がらせのような個人同士の争いに向かっていってしまいがちです。国家・行政をベースにした巨大なシステムによる公共のサービスの中では個人の意志というものは掬い上げられず不満が消化されない現状がある中で、その課題感や不満を昇華する対象としてタクティカルアーバニズムとその制作は実践されえる可能性があると僕は考えています。そのためには、巨大なシステムに対して個人によるゲリラ的な取り組みだけではなく、一つのミッションに集う「共」によって実践される活動が必要です。

例えば、一般的なデモは警察の許可のもと決められた日時に集いある主張を行います。しかしそれは価値観が多様化した社会においては必ずしも共感を生むわけではないものも存在しています。まさに階級闘争が作用しなくなっている現状が今日の日本でも起きていると言えるのではないでしょうか。一方でデジタルワールドにおいては、Twitterによるハッシュタグでの政治活動が特に2019年以降日本では見られるようになりましたがある種インスタントなこの政治活動は効果の是非については議論が残っています。

またデジタルの中だけでの活動は、フィルターバブルやエコーチェンバーなどの概念で語られているように、あるイデオロギーの偏りを産んでしまうことも多く、実際にさまざまな人が存在する物質の社会にこの意見が反映されていくことの危険性もあります。そのようなフィジカルとデジタルの両面を見たときに、タクティカルアーバニズムはそのデジタルによって発生した「共」の活動を都市の改変という形にまで繋げることで、デジタルでは断絶されている、その「共」にも含まれない人々へも働きかけることができるのではないでしょうか。

例えば、近しい例としてソフトウェアであれば、東京都のコロナウイルスの対策サイトではコードがGitHubに公開され誰もが改良に貢献できるように作られています。これは行政の施策になっているため戦術的とは言えないかもしれませんが、一つのミッションの元に「共」が結成され実世界にも影響を与えているとも捉えられるのではないでしょうか。

しかしフィジカルな世界にはそのような事例はまだ少ないないように感じます。インターネット的な繋がりから現実のなかに抵抗を反映させることで「共」の外側にある人たちにも影響を与えていくような取り組みは、フィジカルに必須となる場所性が障壁になっているのではないでしょうか。せっかくの「共」が生まれてもそれに所属するマルチチュードの存在する場所が大きく違えば集うことや作ることは難しくはなるでしょう。しかしこの状況は非同期的な活動を推進させることで可能になるはずです。例えばタクティカルアーバニズムの実践例がまとめられたパンフレットはインターネットに公開されておりそれは誰でも実践可能な状態に置かれています。オープンソースによって知見が共有されることで同時に場所に集わずともそれぞれの場所で同じ「共」のマルチチュードが活動できるはずです。


マルチチュードによる「共」的なタクティカルアーバニズム

今、実践例としてまとめられているParkletや交差点へのドローイングなどは、ローカライズと集合が必要なものが多く、情報が共有されるだけではなかなか実践が難しいですが、個人の課題や不満にからスタートするような、例えば公園の遊具が少ないことや、一方で子供が路上で遊ぶために起きる騒音トラブルなどは各自がオブジェクトを介入させることによって何かしらの影響を与えることが可能であり、それが広い人にとっての問題であるほど多くの「共」を発生させることができますし、何よりオブジェクトの設計図などであればオープンソースにすることで比較的ローカライズしやすく集合の必要性も下がります。

しかしながらこのようにして市民が公共に介入することは必ずしも善的な見え方をする物ばかりではありません。例えばアメリカでは路上生活者を排除するために道に大きな石が設置されるようなことがありました。確かに、その道を通る人にとっては路上生活者が不快な存在に感じたのであればそれを自力で改変しようとすることは戦術的な行為かもしれません。

しかし弱者を排除するというのはマルチチュードの指向する行為ではなく、「共」は<帝国>的な権力に対抗する力であるべきというのが前提にあります。これこそがまさに、マルチチュードのタクティカルアーバニズムが必要となる根拠になります。タクティカルアーバニズムが引き継ぐシチュアシオニストたちの血筋を現在にも実践することは、マルチチュードの概念によって可能になるのではないでしょうか?
巨大な権力に対し、それを成立させているネットワーク自体を活用しながら、市民の手によって都市・公共を改変するという行為こそが今の都市における戦術的抵抗を可能にするはずです。

一方でこのような解決主義や進歩主義的な発想は一元的な「良い」とされるイデオロギーを再生産するマシンとなることもあります。近代デザインがまさにそのようなマシンに陥ってしまった以上この点についても慎重に考慮する必要はあるでしょう。しかし何が「良い」のかが定まらない社会の中で権力との対抗運動に身を投じること、ユートピアとは言えない現状の社会に対して何かしらの改変を可能にすることは権力によって全てが収斂していく世界よりもよっぽど希望があるように思えます。

加えて、そのような政治的な抵抗もさながら、そもそもタクティカルアーバニズムのような運動は自分のアイディアを社会に発露させることや、作ることの本来的な楽しさもあるはずです。

少々飛躍しますが個人的にはこの先には、コンヴィヴィアリティ(自律協働性)、ディナジー、民芸、多元的デザイン、などの議論とも繋がるのではないかと思っていますし、この関係性を示せるような実践を少しずつ行っていければと思います。


それではまた今度。

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