CLANNADを再視聴したけどラストだけ納得いかなかった話

久々にCLANNADを見たので感想を書いていこうと思う。

まず前提として、自分はとてもCLANNADという作品が好きだ。キャラクターは魅力的だしそれぞれのルートのシナリオも非常に感動できる。殺伐ラジオでも見られるような麻枝准さんの不思議な優しい雰囲気が伝わってくるようで独特の良さがあると思う。

岡崎が祖母と出会い父親の話を聞いて汐と向き合うことを決意するシーンはとても好きだ。子育ての大変さを祖母の話から実感し、今まで憎んでいた父に同情するようになる場面は二度目でも泣いてしまった。ここで終わってくれれば自分はCLANNADという作品は何も思うところがなく好きになれたと思う。

だけどそういった良さを感じ取れたとしても、やっぱりラストは納得がいかない。

以前にリアルタイムで見たときも思ったけど、汐が亡くなるという展開が唐突に思えてしまうしラストに渚が生き返るという展開もどうにも受け入れられない感じがする。

なぜ受け入れられないのかを考えると、汐や父との和解のシーンが素晴らしかったからこそ、そのルートが唐突に死によってBADルートだとされてしまうところに納得がいかないのだと思う。

渚の死という不幸を受け入れて汐とともに生きていく。そういう不幸を受け入れた上で生きていくという決意をする展開が自分は好きだった。そういう展開にしておいて汐を死なせるというのはやっぱり唐突に思えてしまうし渚が生き返る展開と同様に必然性がないように感じる。

もちろん伏線が張られているというのはわかる。ことみルートから幻想世界の存在の伏線は貼られていたし、ところどころで幻想世界のシーンは挟まれるわけで、汐の死と渚が生き返るという展開も完全に唐突でないのは理解できる。

しかし伏線が張られていたとしてもアニメだけ見るとやはり唐突に思えてしまう。汐ルートが綺麗に終わったように見えたからこそどうしてもそれ以降が蛇足に感じる。だからやっぱりラストだけは好きになれないのである。

ただ、「なぜ自分はギャルゲーの分岐は許せるのにCLANNADのシナリオは納得できないのか?」という問題はあると思う。

ギャルゲーだと複数の分岐があることは多いし、それぞれのルートで幸せになったり明らかなBADルートがあったりする。そういうゲームで明らかなBADルートはBADだと切り捨てることができるのに、なぜ汐ルートはそうすることはできないのだろうか?

これを考えると「汐ルートが素晴らしかったからこそBADだと切り捨てられない」というのが答えになると思う。

正直なところ、自分は渚が生き返るTrueENDよりも渚が亡くなって汐と和解するまで(汐が亡くなる前まで)のENDの方が好きだ。結局はそこに尽きるのかもしれない。単純にTrueより汐ルートの方が好きという話。完全な幸せよりも不幸があったうえでそれを乗り越えるという展開の方が好きでこのあたりは単純に好みの問題になるのだと思う。

ギャルゲーなどでTrueルートがある場合はTrueルートに一番の納得感がないとどうしてもモヤモヤが残ってしまうのかも。Trueがあるゲームの場合、Trueをラストにプレイさせるという性質上、一番納得感がないと「あっちのルートの方がよかったのに…」という気持ちなるのかもしれない。

Trueが最良のルートという無意識の了解をプレイする側が感じてしまうしまうのでどうしても価値の比重を他のルートよりもTrueの方においてしまうのだと思う。だからこそ「どのルートも1つの結末」という考え方が無意識のうちにできなくなってしまう。

このあたりはゲームの形式によるのかもしれないけどCLANNADの場合は光の玉を集めて願いをかなえるというシナリオ上、Trueを最良のENDであると考えてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。

もちろん渚が生きて家族で幸せに暮らすというENDは最良には違いない。だけど物語として見たときにどうしても自分は汐ルートの方が好きだ。他の人はそうではないのかもしれないので単純に好みの問題ゆえにTrueに納得できないだけなのだろうと思う。

ただ、ここまで酷評っぽく書いてきたけどTrue以外はとても納得できたし良かったと思う。だーまえ特有の優しい感じが物語全体に付与されているようで何度見ても泣けると思う。

(あと本題とは関係ないけどアニメの智代ルート見て智代アフタープレイしたくなってきた)

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