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個人的文庫解説目録 第1回 庄野潤三『庭の山の木』

 庄野潤三にとって三冊目の随筆集である。初版は昭和四八年(一九七三年)、著者五二歳の年に冬樹社から刊行された。芥川賞受賞前の昭和二八年から、刊行直前の昭和四八年初めまでの二十年間の文業を収めている。

 昭和四〇年、『夕べの雲』(第一七回読売文学賞受賞)を刊行したのが著者四四歳の時。それから四年後の昭和四四年に『紺野機業場』(第二〇回芸術選奨文部大臣賞受賞)を刊行、その二年後の昭和四六年には『絵合せ』(第二四回野間文芸賞受賞)、さらにその翌年には『明夫と良二』(第二六回毎日出版文化賞受賞)と、代表作を次々と生み出している、まさに著者の充実期に刊行された本である(本書刊行の昭和四八年には日本芸術院賞を受賞し、さらに『庄野潤三全集』が刊行開始される)。


 庄野潤三の随筆集はおおよそいつも三部に分けられて構成されており、この本もまたそうである。
 第一部では、家族のことや庭に生えてる草花、庭にやってくる鳥たちのことなど身辺雑記風のものから、
「仙人峠から三陸海岸へ」「郡上八幡」といった旅行記、「三人のディレクター」「ラインダンスの娘たち」のような職業取材のようなものも含まれている。
 「三人のディレクター」は大阪の朝日放送でのテレビ番組制作の様子を取材したものだが、著者自身、昭和二六年から三〇年の四年間、朝日放送に勤めていた。この取材もその縁から生まれたものであろう。
 しかしやはりなんといっても、家族や近所の人たち、庭の草花や鳥たちのことを綴った文章群が最もこの著者の魅力を示しているように思う。
 「くつぬぎ」では、歯医者に行った際の、歯医者の先生と、患者である男の子とのやりとりが実にユーモラスに、そして生き生きと描かれる。

「痛いって?」
先生の声が聞える。
「それは痛いんじゃないの。しみてるんだよ」
そうじゃない、痛いんだよというつもりらしい。また声を出した。
「しっかりしないと駄目」
先生は、男の子の手の甲を指でちょっとつついた。
「これが痛いか」
返事は出来ない。
「痛いなんていうもんじゃないだろう。ただ、当っただけだろう。それと同じことだよ」
先生は椅子のまわりを往きつ戻りつしている。
「まあ、何もしないのにくらべれば、いくらか感じるだろう。だけど、痛いっていうもんじゃない」
雑誌をみていたおばあさんが、あとから来た私の方を見て、笑った。

「くつぬぎ」より

 痛みを必死に訴える男の子と、それを宥める先生、それを横で聞いて笑うおばあさん。この三者の対比が面白く、小説の一場面を読んでいるような、何気ない描写に著者の魅力がつまっている。


 第二部では、自身の文学観や読んだ本、観た映画の感想を収めている。
 「私の取材法」や「子供の本と私」といった作家の創作態度を窺える好随筆も多いが、ここでは「率直、明瞭——好きな言葉、嫌いな言葉」を挙げたい。
 著者は、文学作品に流行語を用いてほしくないと言い、また省略語、特に「卒業論文」を「卒論」と言ってほしくないと言う。これは本書巻末に収録されている「著者に代わって読者へ」で長女の今村夏子さん(芥川賞作家の方とは同姓同名の別人)が「言葉遣いをよく注意された」と語っているところとも相通ずるところがある。
 では反対に、著者の好きな言葉はなんであろうか。

力仕事をしている人たちが(そうでない人のはよくない)、重いものを引っ張ったり、持ち上げる時にいう、
「せーの」

「率直、明瞭——好きな言葉、嫌いな言葉」より

 「そうでない人のはよくない」という但し書きがまた良いではないか。


 第三部では、交流のあった作家たちとの思い出を綴ったものを収めており、中学時代の国語の教師であり、後に文学の師ともなる詩人・伊東静雄に関する文章が多く収録されている。
 その中でも私が最も惹かれた文章が「印象」と題された三島由紀夫の思い出を綴った文章である。
 「三島由紀夫と庄野潤三?」と、組み合わせを不思議に思う方もいるかもしれない。
 実は、庄野潤三は三島とともに敗戦直後の昭和二一年に刊行された同人誌「光耀」の同人仲間だった(この「光耀」の名付け親が伊東静雄であり、この時の経緯は本書収録の「『反響』のころ」にも描かれている)。
 三島が亡くなった後、以前から親交のある新派俳優の金田龍之介から暫くぶりに電話がかかってくるところから文章が始まる。金田は以前、三島作品の劇にも出演したことがあり、演技指導もしてもらったことがあると言う。
 その思い出話を聞いてるうちに、著者も金田に三島との思い出を語り出すのだが、その時の著者の心情が何とも微妙な感じがする。

「僕も縁はあるんです」
と私はいった。
それについてすっかり全部ここで話すということは無理だが、何かひとつだけでも金田君に知らせたい。もっとも、それはいま金田君が話してくれたようなものとは、またちょっと違った感じになるだろう。それでも、縁であるということには変りはない。

「印象」より

 三島に対する著者の微妙な距離感というか複雑な思いが入り混じった文章に私は思える。
 三島との初めて出会いは戦時中に遡る。当時、著者は海軍の予備学生で、三島はまだ学生である。著者の初の小説が掲載された同人雑誌の号に三島の作品も載っていたのだ。
 それから一年後、詩人・林富士馬の家で著者と三島は初対面する。
 三島は自身の小説を持ってきて著者の前で朗読をする。その後、著者にも自身の作品の朗読を勧める。

僕にも読め読めというんです、さっき話した、同人雑誌に一緒に出た小説を。行儀のいい、きちんとした人ですが、しきりに勧めるんです。僕が駄目だというと、それなら自分のいちばん好きなところだけでいいから朗読して下さいというんです。僕は到頭、勘弁してもらったけど

「印象」より

 このエピソードは三島の一側面を象徴しているようで興味深いのだが、このエピソードを話した後、金田は舞台の出番のため会話はそこで終わり、著者は「机の前へ戻」っていく。感傷もなくあっさりと文章は終わる。
 戦後の三島の活躍、そして三島の死を知った時、著者の心には何が去来したであろうか。私は今、そのことが気にかかる。

〈補足〉
本書では、各文章末に初出誌が書かれており、この「印象」という文章は、雑誌『新潮』の昭和四五年二月号に掲載されたとなっているのだが、三島の死は昭和四五年の十一月であるから、恐らく「昭和四六年」の間違いだと思われる。


『庭の山の木』講談社文芸文庫, 2020年刊
田舎風のばらずしをこしらえるのに、ちょっと似ている——七十編に及ぶ随筆を一冊にまとめる工程を、著者はあとがきでそんなふうに表現した。
家庭でのできごと、世相への思い、愛する文学作品、敬慕する作家たち——それぞれの「具材」が渾然一体となり、著者のやわらかな視点、ゆるぎない文学観が浮かび上がる。
充実期に書かれた随筆群を集成した、味わい深い一書。(内容紹介より)

庄野潤三(1921・2・9〜2009・9・21)
小説家、大阪生まれ。大阪外国語学校在学中、チャールズ・ラムを愛読。九州帝国大学卒。1946年、島尾敏雄、三島由紀夫らと同人誌を発行。教員、会社員を経て小説家に。55年、「プールサイド小景」で芥川賞受賞。57年から1年間、米国オハイオ州ガンビアのケニオン大学で客員として過す。60年、『静物』で新潮社文学賞、66年、『夕べの雲』で読売文学賞、71年、『絵合せ』で野間文芸賞を受賞。芸術院会員。80年、ロンドン訪問。80歳以降も毎年刊行された一家の年代記的作品は、世代を超えた多数の愛読者をもつ。『庄野潤三全集』(全10巻)ほか著書多数。

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