見出し画像

"女性らしさ"への抗い


小さい頃から"女の子らしさ"というものに抗って生きてきた。

体裁を何よりも大切にする典型的な亭主関白の父と義実家……。母の"働きたい"という願いは、母の意思に反して閉ざされていったという。母は"良き妻"であること、"良き母"であることを常に求められていた。

そのような母の姿を見たわたしは、幼心にも"こんな風になりたくない!"と思っていた。その強い意志は、幼稚園の卒園アルバムにもしっかりと滲み出ている。

「将来の夢ーー医師」

その頃、わたしは6歳になったばかり。友人たちは、「おかあさん」「プリキュア」「おはなやさん」などと書いていたため、1人浮いてしまった。これが、わたしの"周りに馴染めない"の始まりだったのかもしれないーー。

その話はさておき、話を戻そう。

母の教えはひとつであるーー女性も教養を身につけ、手に職を持って働くこと。結婚や妊娠・出産を経ても、仕事を続け、いつ離婚しても我が子を大学卒業まで育めるだけの力量を付けなさいーーこれは専業主婦を"強制"された母の願いであり、祈りだったのだろう。


小学校に上がると、男子に混ざって遊んだ。
男子が何人いようと、女子が自分1人であろうと関係なかった。ドッジボールやキックベース、鬼ごっこ……。どんな遊びにも夢中で参加していた。
躾に厳しい母に伝わることを恐れて、大人や女友達の前では、"わたし"と呼んでいたが、男子と遊ぶときは決まって
"オレ"と呼んでいた。"わたし"より格好良く聞こえたし、"男子"として扱ってもらえることが、何よりも心地よかった。

けれども、それは長続きはしなかった。小学校中学年になると、少しずつ男女別が増えていく。男子と遊ぶことはなくなっていった。
さもなくば、学校という小さなコミュニティに紛れ込むことが出来なかったから。

《わたしは、"女の子"に戻った。戻らざるを得なかった》

中学生になると、"男女別"はさらに増えていった。
もちろん、必要な場合もある。けれども、「これって必要?」という場面も増えていった。
いつからだろうか、"男" "女"と二分されることに嫌気が差すようになっていった。

ここ数年、女子生徒がスラックスを選択できるようになった学校が増えたと聞く。わたしの母校でも女子生徒がスラックスを選択できるようになった。けれども、男子生徒はスカートを選択できない。

"男女平等"が叫ばれ、"ジェンダー平等"が取り沙汰される昨今、"平等"は誰の手によって定められるのだろうか。場合にもよるが、多くはマジョリティが"平等"を定めている。"平等"というのは、多くの人に受け入れられるものでなくてはならない。それは、ある種、社会の"常識"となる必要があるということ。

本当の"ジェンダー平等"って?

マジョリティから一方的にはみ出さされたマイノリティの苦しみを知らぬ人々が決めた"平等"は、果たして平等と呼べるのだろうか。

SNSの普及で、自分の手が届かぬところで言葉が一人歩きする時代。そのようなことを考え続ける今日この頃。

答えは出ない。人の数だけ正解があって、不正解があるのだから。それでも、わたしは忘れないでいたい。
名もなきひとりの人間たちが《思考》を止めない限り、やがて社会に変革をもたらす大きな力を持つことをーー。




22.12.22



都湖のとことこ日記🫧
0から1に、マイナスにいる人が0に立てる。  
そんなことばを発することができたなら-- ことばは祈りに近づくのだろうか。 
生きづらさに悩む、わたしのことば綴り。

スキ、シェアしていただけますと大変嬉しいです。
Twitterもぜひ。https://twitter.com/toko_toko19 (ホームのリンクから飛べます🕊)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?