「まがり角のウェンディ」第2話(全18話)
Ⅰ ー 2
放課後、駅前まで遊びに行こうとの友達の誘いを断って、一人自転車を走らせる。橋の脇の短い坂を立ちこぎでのぼり、土手に出ると、視界がひらけた。空が広い。河川敷のグラウンドでは、寒空の下だというのに小学生たちがサッカーをしている。ユニフォームではないし、人数も足りていないようだから、サッカーチームの練習ではなく友達同士の遊びなのだろう。向こう岸には釣り糸を垂れている男性もいる。
亜美は土手の遊歩道に自転車を止め、斜面の草地に腰を下ろした。
ここのところ晴れの日が続いていたから地面は乾いているはずなのに、お尻の下がひやりとする。それでもじっとしていると、次第に土の冷たさは体温と馴染んでいった。
「あれえ? 亜美じゃん。なに黄昏ちゃってんの?」
ガシャンという自転車のスタンドを立てる音とともに、太く大きな声がした。
太一だ。
声だけですぐに誰だかわかったけれど、一応振り向く。見慣れたクラスメイトが、がに股で斜面をくだってくるところだった。
「太一こそなにしてんの」
「なにって、帰るとこだよ」
「じゃあ帰れば」
「おれたちの仲でそんな冷たいこと言うなよ」
「ちょっ、仲って……誤解されるような言い方しないでくれる?」
「べつに誰も聞いてないじゃん」
「そういうことじゃなくてね……もういいや」
太一は、「いいならいいじゃん」と言って隣に座った。そして小学生のサッカーを見ながら、「お、あいつすげえ」とか「おれのほうが上手いよ」とか一人で騒いでいる。
本当にこいつなにしに来たんだろう。
そう思ったところで、太一が急に真面目な口調で問いかけてきた。
「おまえさ、答辞書けてる?」
「あ、う、うん……まあね」
反射的にそう答えた。
けれども太一は、ふんと鼻を鳴らして言った。
「嘘だな」
亜美は背筋を伸ばして、わずかに顎を突き出した。
「な、なんであんたにわかんのよ」
「あのなあ、わかっちゃうんだよ、おれぐらいになると」
すでに太一は普段の口調に戻っていた。
小学生たちが何事かに大笑いして、互いに手を振り合い、帰っていく。東の空から夜の端がやってくる。亜美は力尽きたように息を吐き、背中の力を緩めた。
「あのね……わたし、なんか、うまく書けないんだよね。なにをどう書けばいいのか、わからなくってさ……」
書けずにいることをほかの誰にも言ったことはなかった。なぜ太一にこんなことを言っているのだろう、と頭の片隅でぼんやり思う。
反応が気になって、そっと、太一に目を向ける。
「おれ、国語とか作文とか苦手だからわかんないけどさ……適当でいいんじゃね?」
思わず、ブッとかわいげなく噴き出してしまった。
「なに笑ってんだよ」
そう言いながらも、太一もこちらを見て笑っている。
「だって適当って、適当すぎるアドバイスでしょ」
「適当にさ、亜美が感じたことを書けばいいんじゃないの?」
「それが難しいんだってば」
「うーん。そっか。そうだなあ……じゃあ、思い出でも振り返っとく?」
「思い出?」
「うん、よし、そうしよう! とりあえず今日は解散! また明日な」
太一はさっさと土手をのぼり、自転車にまたがった。
「おまえも早く帰れよ。風邪ひくぞお」
「うん。もう帰る」
亜美は立ち上がってスカートをはたいた。
ありがとうと言う前に太一の姿は小さくなっていた。太一の自転車は真っすぐ伸びる遊歩道を行く。その後ろ姿を、見えなくなるまで眺め続けた。
「よし、帰るか」
亜美も自転車に乗り、夜から逃げるように走り出す。
ペダルが、やけに軽かった。
太一と話をしたときには心が軽くなったけれど、それもわずかな間だけだった。再び下書きのノートに向かったときには、すでに憂鬱な気持ちがぶり返していた。
早く答辞を書かなくてはならないのに焦れば焦るほど言葉が奪われていく。それでも学校に行けば友達とのおしゃべりは楽しめてしまう。時間も気持ちも、なにもかもが足りない気がして、必要以上に大きな笑い声をあげてみたりする。
卒業が近づくにつれ、毎日がどんどんきれいに見えてくる。
この風景を言葉で伝えるにはどうすればいいだろう。
誰もいなくなった教室で、一人窓辺にたたずむ。思い出を振り返る、と太一は簡単に言っていたけれど、それがまとまらないから困っている。
一日中なにをしていても答辞のことが頭から離れなかった。離れないのに書くべきことはなにも浮かばなかった。重い気分と足を引きずりながら、亜美は、教室をあとにした。
駐輪場につくと、太一が待っていた。
「行くぞ」
「え? 行くって、どこへ?」
「思い出を探しにだよ」
柄にもなく詩的なことを言うから笑ってしまった。
「えっと、思い出を振り返るとかいうやつ?」
「それそれ。ほら、急がないと思い出の尻尾をつかめないぜ」
太一が勢いよくスタンドを蹴り上げて走り出す。亜美も慌てて自転車のかごにカバンを押し込み、あとを追った。
二台の自転車が並んで走る様を遠くから眺めている気分になる。ただ通学路を走っているだけなのに、この風景を時間ごと切り取って大切にしまっておきたくなる。
徒歩で駅やバス停に向かう生徒の列を追い越していく。太一は声をかけたりかけられたりしては、「じゃあな」とか「ばいばい」とか手を振っている。それを見ていると、この人は学年全員と友達なのではないかと思えてしまう。
駅やバス停は最初の角を右に曲がった先にある。ほとんどの生徒はそちらに流れていくが、亜美と太一はハンドルを左に向けた。
河原についた頃には、同じ制服の生徒はちらほらと目につく程度だった。
「まずはここだろ」
太一に並んで自転車を止める。後ろを振り返らずにさっさと土手をおりていく太一を慌てて追いかける。おりた先は、昨日小学生たちがサッカーをしていたグラウンドの隣、ただ地ならしされているだけのスペースだった。
亜美はかつての光景を眺めるように首を回した。
「うわ。ここって、あれだ! すごく大変だったのを思い出しちゃったよ」
太一がにやりと笑う。
「思い出すために来たんだろ」
「あ……わざとそれを思い出させようとしたでしょ」
「さあねえ。なんのことでしょうか」
「ひどい。いじわる」
なじる亜美に向かって、太一は謝るどころか、バレーボールのサーブを空振りするしぐさをした。
放課後にここで球技大会の練習をしたことが思い出される。
昼休みに校庭で練習をするクラスはあったけれど、放課後までやっているクラスは多くなかった。体育館や校庭は運動部が使っていて、中庭や昇降口の前などの狭いスペースしか空いていなかったからだ。それに放課後は集まりもよくない。なにより、そこまで球技大会に熱をあげるクラスなんてなかった。
「優勝狙うぞ!」
そう言ったのは太一だった。みんなきょとんとしていた。亜美だってそうだ。参加種目の振り分けを書き出した黒板の前で、チョークを持ったまま立ちつくした。
受験時期の学級委員なんて誰もやりたがらなくて、それならばと引き受けたのが亜美と太一だった。ほとんど書記と化していられたのも、太一が表に立ってくれたおかげだ。それはもしかしたら、リーダーシップなどという立派なものではなくて、ただ単に自分が楽しみたかっただけなのかもしれない。
それでも太一が優勝の二文字を口にした途端、みんなが顔をあげたのは壮観だった。参加種目にしても、全員参加だから仕方なく自分にとって楽そうな種目を選んだにすぎないのに、一瞬にして興味をそそられるものに成り代わった。
さらにはクラスの目標が、「目指せ優勝」になり、そしてあれよあれよという間に放課後練習をすることにまでなった。
それで、練習場所に選ばれたのが、この河原だった。
全員参加ということは当然運動の苦手な人もいる。亜美もその一人。さっきの空振りサーブは亜美の真似だ。比較的走り回らずに済みそうな種目を選んだつもりだけど、なかなか難しかった。あれだけ大きなボールなのになぜか腕にあたらない。トスだって指で作った三角形をボールが突き抜け、額に直撃してしまう。
程度の差はあれど、優勝への足を引っ張りそうなのはなにも亜美だけではなかった。その人たちをせめて普通レベルにまで引き上げようというのが放課後練習だった。
できる人ができない人に教える。単純なことだが、教える側にメリットはない。それでも、教えるほうも教わるほうも、優勝という同じ目標に向かって笑顔で練習を頑張ることができた。あのとき、亜美は初めて球技をおもしろいと思った。
結果は総合優勝だった。全種目で勝ち上がったわけではなかったけれど、総合点で一番だった。女子は抱き合って泣いた。ほかのクラスから呆れた空気が漂ってきても、ちっとも気にならなかった。
あれから何か月も経った河原で、練習のことや球技大会当日のことなどを太一と話していると、様々なことが思い出された。一人で振り返っていたときにはなかった、当時の感情までもがよみがえってくる。
「あの頃と違ってこの時期は日が落ちるのが早いな」
「うん。そろそろ行こうか」
ひとしきり思い出話で盛り上がったところで帰ることにした。
川沿いの道を離れ、住宅街へ入る。児童公園を通り過ぎる頃には、自転車のライトをつけなければならないほどの薄闇になっていた。
前を走る太一の自転車が、教会の建つ分かれ道の手前で止まる。
またね、と手を振るのはいつもここだ。
教会の門扉は大きなアイアンゲートで歩道から少し奥まっている。二台の自転車が並んでも、通行人の邪魔にならないくらいの広さがあって都合がいい。
門扉の向こうの木立が風に揺れ、暮れゆく空に教会の屋根が見え隠れしている。
「太一、今日はありがとう」
「ん。明日はどこにするかなあ」
「明日も?」
「いや?」
「え? いやじゃないけど……」
「ならよかった。いろいろ回ってみようぜ」
じゃあな、と片手をあげていま来た道の先を行く。太一の姿は帰路を急ぐ人波に紛れてすぐ見えなくなった。亜美は胸元で振っていた手をゆっくりおろし、ペダルを強く踏んでハンドルを右に切った。
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