「まがり角のウェンディ」第4話(全18話)
Ⅰ ー 4
卒業式の日は朝からよく晴れていた。予行練習では足元が冷えた体育館も、人が多いせいか、ほんのりあたたかい。
式も終盤に差し掛かり、卒業生の膝の上に置かれた卒業証書が窓からの光を受けて淡く光っている。
「答辞。卒業生代表――」
名前を呼ばれ、亜美は立ち上がった。
「はいっ」
頭の中で手足の動きを確認しながら歩く。意識していないと、同じほうの手足が同時に出てしまいそうだ。通路の端を曲がる際に上履きがキュッと鳴いた。ステージへの階段をのぼる。昨日のリハーサルではつまずいてしまったから、今日は一歩ずつ丁寧に踏みしめる。演壇に立ち、一礼。顔をあげると、驚くほどに一人ひとりの顔がよく見えた。普段はついおしゃべりをしてしまう女子も、退屈で居眠りをしてしまう男子も、今日ばかりは口を閉じ、目を開いて、じっとしている。
一歩前へ出る。この日のために書き上げた原稿を広げる。それからマイクが音を拾わないよう、ひそかに深呼吸をする。
そして、亜美は口を開いた。
「教室に差し込む日差しもやわらぎ、校庭を吹く風にも春の訪れを感じられるようになりました。このような良き日に、私たちは卒業します。ご多忙の中をご出席くださいました御来賓の皆様、校長先生はじめ諸先生方、並びに関係者の皆様に、卒業生一同心から御礼申し上げます」
震えのない明瞭な声が体育館に響く。鼓動の早さに反して、亜美の頭の中はすっきり澄んで凪いでいた。練習の際に先生に指示された通り、時折り原稿から目を離し、正面を見て話す。文章は暗記している。何度も練習をしているうちに自然と覚えてしまった。
部屋で音読しているとき、聞きたがる両親を追い払うのに苦心したことを思い出す。その両親の姿は保護者席の最前列中央にあった。父がこぶしを握り締めて身を乗り出している。この大事な役目の最中だというのに、亜美は思わず笑いそうになる。自然、声もやわらかいものになった。
「いま、卒業式に臨み、数々の思い出がよみがえってきます」
同じクラスの人たちが亜美のことを心配そうに見上げている。亜美は背筋を伸ばし、続きを読み上げる。
「球技大会や合唱コンクールではチームワークの大切さを学びました。練習では、みんなの部活動やアルバイト、塾や習い事のスケジュールを調整して時間を確保するのが大変でした。それだけに仲間のために作り出した時間は貴重なものでした。誰かのために力を尽くすことが自らを満たすのだと気づかされました」
クラスメイトの数名が頬を緩ませた。きっと河原での練習風景が脳裏に浮かんでいるのだろう。亜美の口元もほころぶ。ほかのクラスの生徒の中にも表情をやわらげたり、あるいは顔をしかめたりする人がいる。
「チームワークは学園祭でも発揮されました。校内風景の写真で作ったモザイクアートの美しさはこれからも忘れることがないでしょう」
忘れられないと言えば、並べていた写真が風に舞ったことだ。あの瞬間、誰もが作業を台なしにした張本人をなじりたかったと思う。そんなとき、いち早く言葉を発したのは太一だった。「なにやってくれてんだよ!」と笑いながら張本人の首を脇で絞めた。みんなは怒りも忘れて太一をなだめることに必死になった。太一が激しく、でもふざけ半分で怒ったから、誰も責めたり責められたりせずにすんだのだ。先に怒っている人がいると、周りは怒るタイミングを見失う。そんなことにも気づかされた。
「チームワークだけでなく、計画や慎重さの重要性を学ぶ機会ともなりました。展示物や出し物はクラスによって異なりますが、どこも同じだったのではないでしょうか。ひとつのものを共同で作り上げるとき、役割分担を超えて個性が発揮される場面も多く見られました。普段の授業だけでは知る機会のない面があるのだと学ぶことができました。人や物事を多角的に見る重要性に気づくきっかけでした」
隣り合う者同士で笑みを交わしたり、軽く叩き合ったりしている姿がそこかしこに見える。耳元に手を当てて内緒話をしている人もいる。先生たちはそんな生徒がいても目を細めて微笑むだけだ。練習のときなら厳しく注意された私語もいまは黙認されている。
「これらの学校行事だけではありません。振り返れば、なにげなく過ごしていた日々の中にこそ濃密でかけがえのない時間が流れていました。その時間の中で気づけなかったことは残念ではありますが、特別に身構えたりしなかったからこそ得られたものも多かったのだと思います」
亜美は会場を見渡した。すべての目が亜美を見ている。同じクラスの友達がハンカチを目元にあてるのが目についた。つられそうになり、ぐいと顎を上げる。顎を引いて話すようにと言われていたが、いまそんなことをしたら涙が零れそうで、亜美はわずかに上を向いて続きを暗唱した。
「楽しいことばかりではありませんでした。それでもすべてが、いまは思い出です」
たしかに楽しいことだけではなかった。模試の結果がかんばしくない生徒が落ち込んでいたとき、目標を達成した亜美たちは気兼ねして素直に喜べずにいた。誰もが口を開けずに黙り込み、教室が重い空気に包まれた。そのとき、窓から紙飛行機が飛び立った。すうっと風に乗って、遠く校庭のフェンスまで飛んだ。
窓辺には太一がいた。飛ばしたのは結果表だった。
みんな真似をして自分の結果表で紙飛行機を折り始めた。次々と教室から飛び立つ紙飛行機は、窓を出るなり急降下するものもあれば、校庭を越えていくものもあった。飛行距離に模試の結果は関係なかった。たくさんの紙飛行機の飛ぶ様は壮観で、どこまでも飛んでいけそうな気がした。
先生からゴミを散らかすなとひどく叱られて回収する羽目になったけれど、クラスは明るさを取り戻した。
視界の隅を影が横切る。正面を向いたまま視線だけを向けると、窓の外を鳥が飛んでいくところだった。
「望まない出来事も、受け止め方やその後の行動でよいものへと変化させることもできるのだと学びました。小さな毎日の積み重ねが大きな実に育つことを知りました」
大きな実に育ったのは誰のおかげだろうと考える。いくつもの顔が頭に浮かぶと、声が震えた。声が震えて、言葉が揺れ、途切れる。亜美の声は会場の空気を震わせ、波紋のように広がっていた。人々へ波は寄せる。波は次第に高まっていく。
「……いつでも始めることができる。いつでもやり直すことができる。朝礼のたびに校長先生がおっしゃっていた言葉です。そのお言葉通り、これからはどんなに小さなことでも疎かにせず、大切に育てていきます」
会場から鼻をすする音が聞こえ始め、さざ波のように広がっていく。
亜美の視界が水に揺れる。光の粒が煌めいて見えた。原稿の文字はとうに見えない。それでも言葉は出てくる。伝えたい。その一心で声を出し続ける。たとえ揺らめく声でも届けたい、そう強く思い、眉間に力を込める。
「過ぎ去った時間を戻せるわけではありません。なしえたこと、なせなかったことをきちんと受け止め、それでも新たな一歩を踏み出していくしかないのです。この学校で三年間を過ごし、改めて振り返ったいまだからこそ、気づくことができました」
窓から差し込む日の角度が鋭角になっている。空気中に舞う細かい塵に反射して、光の帯が幾筋も会場の人たちを照らし出す。すべてが光の中で揺れている。すべての顔が亜美に向けられている。
がんばれ、とかすかに聞こえた気がして、亜美は目を見開いた。本当に聞こえたのかどうかはわからない。言ってほしくて、聞きたい声を聞いただけなのかもしれない。
右手を喉元にあてる。亜美が大きく息を吸い込むと、数人の生徒がつられたように大きく息をついた。亜美は声を振り絞る。
「これからの長い道のりの中で、挫折や困難を経験することがあるかもしれません。そのようなときには、きっとここで過ごした三年間が支えになることと思います。この答辞を書き上げるまでにも大きな支えがありました。過去の卒業生の原稿を揃えてくださった先生。時に励まし、時に見守ってくれた家族……」
両親と目が合う。亜美はその視線を卒業生席へと移す。顔も知らない生徒までもが真剣な眼差しで亜美を見ていた。うつむき加減に肩を震わせる人もいる。その肩が波のように見える。会場のすすり泣きが潮騒に聞こえてくる。
「ともに思い出を作り……」
喉の奥が熱くなり、声が詰まる。女子生徒の抑えた嗚咽が聞こえ始めた。生徒も先生も保護者も上気した顔を壇上に向けている。向けられたすべての視線の中、亜美の視線はただ一点に吸い寄せられていく。
「ともに道を探してくれた、友人」
……太一。
目が合い、波しぶきが弾ける。すべての音が遠のいた。
けれどそれは一瞬のことで、みるみるうちに波は引いていく。音が戻ってくる。すすり泣きやざわめきなど、人の気配が広がる。
「ここには、最高の先生方、支えてくれる家族、心強い仲間がいます。この方々と過ごした日々に誇りを持ち、明るい未来を目指して歩んでいきたいと思います……」
ひとたび言葉を切り、呼吸を整える。わずかに上向き、瞼を閉じる。溢れたものが吸い込まれていく。
再び目を開けると、天井の明かりが眩しく、慌てて視線を下に向けた。視界には花畑が広がっていた。よく見ると、花に見えたそれは、みんなが手にしている色とりどりのハンカチだった。
亜美は深く息を吸い込み、会場の一点を見つめた。太一の大きな目が、亜美を励ますようにゆっくり瞬きをした。亜美は姿勢を正す。
「最後になりましたが、本日の卒業式にご臨席を賜りました皆様のご健勝と、母校のますますの発展を心よりお祈りし、答辞といたします」
声の震えはない。原稿から目を離し、顔をあげる。
「卒業生代表、三年A組、富田亜美」
しばしの静寂のあと、肌がびりびり震えるかのような拍手が湧き起こった。卒業生たちにいたっては立ち上がりそうな勢いだ。
亜美が礼をして席に戻ってもまだ、拍手は鳴り響いていた。
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