見出し画像

正しくなさを抱く。熱い。

思うことを人に話し、しかし話すとものすごく基本的な知識を知らないことに気づいて恥ずかしくなったり…そういうことがなんとなく続いた。
「うわっ、話さなければよかった!」と一瞬思うが、知ったかぶりをする自分を想像すると、余計恥ずかしい。「これは通過すべき“恥”なのだわ」と胸に刻む…。精進します。

ネットに溢れるヘイトの酷い言葉に日々辟易しており、そんな話を人とした。
こういう言葉を見る時大体、私が思い浮かべるのは“ヘイトを撒き散らすネット民”みたいなイメージだ。恐ろしい差別主義者という、絶対的な悪人。“ネット民”であって、温度をもった人間ではない。
でもそんな事はなくて、そうしてヘイトを撒き散らす人だって普通に暮らしているのだ。私と同じように。

「差別はよくない」「皆同じ人間なのだから…」そういうふうに言うとき、実は少し胸が傷む。
これまで、握手のために差し出された手に触れるのを、一瞬ためらってしまった場面が何度かあったからだ。
価値観や文化、暮らしの違いなど。背景は色々だが、一回だけの事ではなかった。具体的な空気すら思い出せる。

その手に抵抗を感じた次の瞬間「いや、そういうことじゃないよな」と思い直すんだけど、最初に抵抗を感じた、あの一瞬の感覚は明らかに自分の中の差別心である。
握手をためらった自分の無言と、よそで聞くヘイターの酷い声は、根本的には同じものだと思う。

できるだけ正義で在りたいけどそうはなれない。だから間違えて、正しさを探し続ける必要がある。
暫定の正しさでも、丁寧に育てれば自分の一部になっていく。
失敗と間違いをいつだってちゃんと持つ。誠実でありたいと思ったら、そういう覚悟がいるのだと思う。穴があったら入りたいが、穴に身を埋めたら出られなくなってしまう。生々しい気持ちを持って暮らすこと。


全力でフリーペーパー発行などの活動費にさせていただきます!よろしければ、ぜひサポートをお願いします。