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人の守り方について

ここしばらく、障害や病気について当事者発の書籍をいろいろ読んでいます。

それぞれの困りごとや、言葉を知って「これまで失礼なこと言っていたかもなあ」とか「私は同じ病気ではないけど、わかるなあ…」とか、思うところ多々…。
私自身も、自分の話をまんが「解離性障害のちぐはぐな日々」やフリーペーパー「ゾンビ道場」で書いてきましたが、他の人の本を読んでいると、自分の作品とは何かが決定的に違うな、と感じることが多く…。何かしらと思っていたんですが、最近なんとなくわかったんです。
それは「怒り」の存在なんじゃないかと。

言うまでもないですが、私は差別が嫌いです。人が人に対してラベリングをし、上下を決めるという行為はとても傲慢だと感じますし、そういうことを平気でやる人を心底軽蔑しています。
しかし自分の場合、その怒りは他人が虐げられている時にのみ適用されるもので、自分が攻撃された事に関してはあまり腹が立ちません。「どうでもいいや」という気持ちで終わってしまうのです。

障害の名前をオープンにしているので、その諸々で差別的な言葉を受けたことは結構あったし、そうでなくても身体的な特徴とか、女性であることとか、学歴(これはすごい多い!)とか…ラベリングに傷ついたことはいろいろありました。
ただ、いつも、その場ではよくわからないんですよね。瞬間、スッと心許ないような、寂しいような気持ちになって、何日か(何年か?!)結構時間がたってから「もしかして、私は失礼なことを言われて傷ついたのでは…」と気付いたりする。
そしてその度に「まあ、分かり合えないものだしな、人間は。仕方ないな」というのを気持ちの落とし所にする…と言う感じです。


今まで、これを世渡りのコツのように思ってたんですが、障害の話を積極的にするようになってだんだんと気持ちが変わってきました。
というのも、「自分が我慢すればいいや」と思うのは「自分と同じような人は、やはり同じように我慢する方が良い」というのと同じだと気付いたからです。

例えば、私が障害のことで差別的な発言を受けたとして、私がその場で何か言えば「この発言で傷つく人がいるんだな」というのがすぐ伝わる。(相手がどう思うかは別として)
でも、「仕方ないな」と黙っていたら、その発言が差別をもたらす可能性があることすら気づかれないわけです。問題は、問題にしなければ問題にならない…というアレ。

なのでなるべく細かく怒りたいと思ってはいるんですが、そこで立ちはだかったのが冒頭で書いたような、「怒りが『どうでもいいや』になっちゃう」という壁なのでした。

たぶん、反論することで「いやいや、それは君の捉え方の問題うんぬんかんぬん」と言われたらヤダな、というのが大きいんだと思います。
理解されず、ショックが上塗りされるよりは、そもそも理解を求めない方が傷が浅くて済む。運良く理解してもらえたら傷は癒えるけど、癒されるメリットと、傷つくデメリットを秤にかけたら「癒えなくてもいいから、とにかく傷つきたくない」と言う方が大きいんだろうな。

他人の尊厳を守ることは大事だし、他人の傷に無頓着になったら人間終わりだわ、くらいのはっきりした気持ちはあるのですが、その気持ちと「自分もまた守られるべき」というのが、どうもスッキリとつながらない。
この謎がスッキリしたら、また違う景色が見えるんだろうか?

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