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代わりのないその一部を

本の作業がまた少し進む。皆さんのツイートをまた見直して、これでいいのかな、このくらいに縮めようかな、いや、それをやってもいいのかな…などと逡巡。

そんな中、先日Twitterを見ていたら、まさに自分が考えている事に近いツイートを発見。思わず手を止める。

私の場合、当事者(自分)が別の当事者の話を聞く、という形だけど、当事者同士だから全てを解りあえるわけではない。
共感できるトピックが多いからこそ、わかったつもりになって無神経になってしまう危険性も高いだろう。だからこそいつも「嫌な気持ちにさせている可能性」を念頭に置いて話すようにしている。
いつも出来ているわけではないけども!なるべく!なるべく…。

本来、生きている時間やその問題っていうのは誰かに提示するためのものではない。取材記事や当事者の語りというのを、今はいろんな所で見るようになったから忘れがちだけど、どれだけ些細な話でも、人生の一端を見せてもらうというのは少し特殊なやり取りじゃないだろうか。
その緊張感と、それを話してくれたことへの敬意は忘れずにいたい。

書籍を出版し、自分が取材を受けていた時もこういった事で、モヤっとする場面が少なくなかった。とりわけ「役に立つ」という観点で質問を受けた時だ。

もちろん、役に立つ事自体はありがたいしそのつもりで本を書いたんだけど、どうして“当事者発”となると途端に、「社会の役に立つ」為に、当事者本人が疲弊する(発信者であれば多少疲弊しても仕方ないとする)という方向に話が傾きがちなんだろう。

もちろんそうじゃない人だって多かった。また、質問する側に悪意がないのだってわかる。加えて、私自身も「役に立ちたいが無理はしたくないが、役には立ちたい…」というゆらぎの中にいるので、特に誰が悪いとも思わない。仕方ないんだろう。

ただ、当事者だって社会の一員だ。「社会のため」「当事者のため」と二分した形になりがちな構造に、ぼんやりとした違和感を持っている。
特にこれが何かという答えが出ているわけではないけど、今後も意識していたい。何となく自分にとって大切な疑問であるような気がする。

…と、まとまりのない文章になりましたが、現時点ではこんな感じ。
まあ、まあ、まとまらないまま。考えつつ、行きます。

理解を阻む壁は取り払えたらいいと思うけど、取り払うにしても薄く分解して一つずつ丁寧に解体していかないといけないんだろう。
遠くから見ていた時は巨大な壁だった。近くで見たらいくつもの塀が続いている。塀を構成しているブロックを、一つずつ動かす。動かせるかな?


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