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些細なことと、それが揺らす命について

最近、スポーツ選手や著名人など、メンタルの問題をカミングアウトする人が増えました。
個人的には、いい風潮だと思ってるのですが、先日、うつ病をカミングアウトした大阪なおみ選手について「病気を出してくるのはずるい」「うつ病なら試合に出られるはずがない」とバッシングしている人が結構いると知り、げんなりしてしまいました。もし大阪選手がもっと症状を悪化させたあとカミングアウトしていたら、その人たちはこう言うのではないでしょうか。
「もっと早く相談できていたら」と。

うつは自死にも至る病です。
自殺してしまった著名人に、お悔やみ申し上げる前に、生きている人をもっと大事にしてほしい。こう言う話を聞くと、いつもそう思います。

「どうでもいい話」が揺らすもの


私はかつて、友達を何度か自死で失ったことがあります。
もう10年以上経っていますが、いまだに「あの時、もっと電話で話していたらよかったんだろうか」「あの時の誘いを断らなければよかっただろうか」と考えています。
もちろん、亡くなった背景には色んな事があり、そこで私が声をかけたかどうかなんて些細な事でしょう。
でもその些細な事が、絶望の淵にいる時いかに希望になるか。それもわかるからこうして10年以上悔いているのだと思います。

20代の頃、私はかなり切迫した希死念慮を抱えていました。
そんな中、死にたいとかこれから死ぬんだとか、そんな感じの事を友達(さっきの話とは別の人です)に電話で話したら「じゃあ、死ぬ前に一緒に飲もうよ」と言われたことがあり、そこから結局、今も生きています。
特に励まされるでもなく、チェーンの居酒屋みたいなところでだらだら話してただけだったと思います。
ただ、その時間で死にたい衝動はどこか薄いものとなり、その日は普通に解散して、家に帰ったのでした。

また先日「もうどこへも行きたくない」と、ぼんやり立ち寄った古書店で出会った本が思いがけず面白かったり、何もできず横になってラジオを聞いてたら、投稿のメッセージが面白くて吹き出してしまった…なんてこともありました。
そういう、解決策ではないけど、まあいいかと思える時間をつないで、私は息を続けているような気がします。

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ほんの少し何かが、肩を押すとか押さないとか、その程度の違いで人は死ぬし、生きる。
先述した、死んでしまった友達に死の直前、何があったのかは知りません。ただ、私の悩みと友人のそれはかなり近かったので、きっと何かがふと友人を死の方向へ揺らしたんでしょう。
そして私は同じようにして、生きる方向へ揺れた。その程度の違いだったんじゃないかと思います。

生活は劇的じゃない

こう言う話をするといつも、Theピーズの「生きのばし」という曲の中にあるこの歌詞を思い出します。

やめよーか 流そーか
焦りたくねーで 生きのばすだけ
乾け センタクもん で また明日 どこまでもぬるい景色
今にみろで過ぎていく

キラキラした希望ではありませんが、私はいつもこの歌詞にぼんやりとした安心感を覚えます。
そう、良くも悪くも、続くのは「ぬるい」景色なんです。
劇的に自分を動かす出来事なんてそうそう起きない。強い熱さや感動も、長く続くものではない。強烈な絶望感だってそう。
で
、また明日。

解決策がない話は「まあそれはともかく」と言える時間を増やすのが解決策なんだろうなと最近よく思います。
その場では解決しなくても、「それはともかく」が繋がることで、未知の解決策が出てくる。そういうのだって、アリです。
輝かしい希望をゲットするのは難しい。でも「それはともかく」程度のぬるい景色になら、近づけそうな気がするのです。



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