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私の中にもある因子

配信で「“死刑囚”に会い続ける男」を見る。

[会い続ける男]がタイトルになっているけど、内容の中心は「彼」(=この監督であり、報道記者の西村匡史氏)ではなく、彼が面会を続けてきた様々な死刑囚の話だ。

犯行に及んだ背景は様々ながら、共通して感じたのは、他者との距離感の取れなさだった。人間関係というのは状況によって近づいたり離れたりするものだという事、また、自分と他者は別人だという境界が育まれてこなかったように見えた。

しかし、そんなふうに書いたものの、私自身、これをうまく乗りこなせているかというと怪しい。
というのも、私は10代の頃からかなり長い事、見放され不安がものすごかったからだ。友達にしても家族にしても、拒絶されたと感じるとパニックみたいになってしまって、子供の時は怒ったりもしたし大人になってからは相手に当たらなくなったとはいえ、怒りと悲しさと同様で頭が真っ白になったりしていた。比喩ではなく“ぶちキレる”と言うのはああいう事なのだろう。

それが改善された理由ははっきりとはわからない。年齢を重ねて様々な人と交流するうち、人間関係を一定の形で保持することに執着しなくなったのが大きいような気がする。
今でもたまに、そういった不安でガーン!とキレそうになることはあるけど、なんとなく「おお、この感情!お前はまだ生きていたのか…」と客観視して、適切な怒りかどうか?というのをなんとなく自覚出来る程度にはなってきた。

犯罪に巻き込まれるのは当然怖いし、犯人を擁護する気もない。
けれども、自分にも少なからず健康とはいえない部分があり、また犯人も最初から極悪人として生まれたわけではないのだ。個人の問題に矮小化したり、善悪二元論で語るのではなく、社会全体の話として考えていく必要性を強く感じた。

西村記者の「加害に至る背景を知らなければ犯罪は防げない」という信念に共感する。
人を陥れるのも人だが、守るのもまた、人であってほしい。

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