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他の誰かを想う日に

メリークリスマス!街中が浮き足立っているような年の瀬、皆さんはどんな風にお過ごしですか。そして、あなたの身近な人はどうでしょうか。
プレゼントやパーティ、デートなどなど、誰かを想う日だからこそ、考えてみたいことがあります。



最近、「どうしたらいいかわからなかった」という理由で起きた事件を、多く耳にするようになりました。
妊娠の相談ができずに乳児を殺してしまったとか、人に頼れず孤独死してしまったとか、家族が亡くなった後にどうしたらいいかわからず、遺体を家に放置していた…というニュースもありました。書き連ねているだけで気持ちがギュッと苦しくなってきます。

そして、そういったニュースに必ずついてくるのが「もっと早く助けを求めていれば…」という声。もちろんその通りなのですが、その言葉に私はいつもチクチクとした違和感を感じています。助けを求めるって、そんなに簡単なことでしょうか。

人に助けを求めるのは問題の困難さだけでなく、こんな条件が必要だと考えています。

・助けてもらった経験や、そこから来る「助けてもらえる」という確信
・自分は助けられるに足る存在だという肯定感
・助けてほしいという欲求

しかしこれらは、落ち込んだり無気力になったり、助けが必要な時ほどしぼんでしまうもの。
ですから、限界を超えて何か大変な状況に陥った後の「助けを求めてくれれば…」の言葉は時に、「やっぱりわかってもらえないんだ」という当事者の気持ちを上塗りしてもいると思うのです。

自殺しないために、事件を起こさないために、変えるべき社会構造はたくさんあります。けれど、その“社会”を構成しているのが私であり、あなたであり、あなたの隣の誰かです。
まずは近くの人のヘルプに、あなたのヘルプに、少し気持ちを向けてみませんか。「何かあったら言ってね」だけではなく何もなくても。

とはいえ、ヘルプというのは出すのも受け止めるのも、かなり大変です。
私自身、少し思い返すだけで「あの時もっとああしておけばよかった」と悔やんでも悔みきれない経験はいくつもあり「もし助け合えても、無理な時は無理」というのが本音だったりします。
ただ、その本音の隅っこに貼りついている「何もしなかったらゼロだけど、少しでも何かできれば1だ」というも気持ちだけは捨てたくないのです。


誰かの人生がどうしようもなくなってしまってから「たられば」で推論を立てるのは傍観者のすること。
小さな声かけでも良いと思います。ご冥福をお祈りする前に、お悔やみ申し上げる前に、ニュースのコメント欄に意見を書く前に、出来る事はたくさんあると思いませんか。


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