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生き残った人しか生きていない

ニュースを見たり、人の話を聞いていると本当に「何かが起こらないと問題提起はされないんだな」と思うことが多い。問題提起というか、問題にすらならないというか。
そういうきっかけがあるたびに非常にモヤモヤしてしまう。

私だってもちろん、普段からあらゆることに問題意識を持っているわけではない。だから、大声で人を批判できる立場ではないのだけど。

ちょうど10年くらい前、友達が立て続けに自死した時期があった。
親しさの程度は色々だったけど、1人の話を知り、数ヶ月後にまた1人、その後にまた1人…と本当に“立て続け”で、しかもこの時期より前にも私は自死で友達を2人失っている。

共通していたのは、皆、メンタルにトラブルを抱えた人だった事。また、その報告が、共通の知人や本人のSNSから、大変あっさりしたものだった事だ。
大袈裟な予兆や予告がなくても危険そうな雰囲気がなくても人は死ぬのだなあ、とぼんやり感じ、事態の大きさをあまり深刻に受け止められなかった。別に不思議がないからだ。
なぜ?とも思わない。死にたい気持ちの人が自分で死んだのだ。あまりにもわかりやすい別れ方だった。

メンタルに問題を抱えて生きるのは大袈裟じゃなくサバイバルなんだ、とその頃から強く感じるようになった。生きることは当たり前ではない。“生き残ること”なのである。

私はいつもどこかで「また人が死ぬかもしれない」という焦りを持っている。しかしそれに対して、特に大きな対処が出来ないのも知っている。だって、私は友人たちを救えはしなかったし、実際問題、救うタイミングもおそらくなかった。

彼らが、死にたいと言って誰かに電話をしたり、自分の辛い境遇を話したりすればあるいは救われたのかもしれない。しかしそんな余裕はなかっただろうし、それが普通だと思う。
最近は自発的に声を上げるマイノリティの当事者の方が増えた。確かにそういった声は説得力があるだろう。しかし本来、すでにヘトヘトな人が声を出すと言うのはとんでもなく気力、体力の要ることだ。それを、物事の解決策の一つとして良いのかという疑問がいつもある。

当事者が切々と訴えなければ、犠牲にならなければ、問題として浮上すらしないという構造を悔しく思う。
人の精神なり体なりが死ぬことはただの「事例」ではない。基本的には取り返しがつかないことだ。その死を議論の発端とすることを、きっかけとか前進とか言いたくない。むしろ、懺悔や贖罪と捉える方がまともなんじゃないだろうか。


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枯れる前にそうして欲しかった

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