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数少ない声について

突然ですが、みなさんは社会においてご自身のことを多数派、少数派のどちらだと思いますか?それは自分で選んだことでしょうか。それとも、そうならざるを得なかったのでしょうか。

私はというと、学校を途中でやめていたり、職歴があやふやだったり、精神障害があったりという面では少数派ですが、身体的には健康だとか、配偶者が異性であるという点では多数派です。多くの人が、そのように少数派の面、多数派の面、両方持っていると思います。
さて、そこでまた質問です。あなたは自分と違う立場の人のことをどのくらい理解していると思いますか?そもそも、理解できると思いますか。

「行き過ぎた正義」という言葉

SNSなどで個人が簡単に、主義主張を発信できるようになり、これまで聞こえなかったさまざまな意見を耳にする機会が増えました。
その中には、個人の正義感の押し付けだとか、「考えすぎでは」と思われるような言葉もあり、それが一部で「行き過ぎた正義」なんて言われています。
ただ、私はこの言葉にすごくモヤモヤしたものを感じています。
本人にとっては勇気を振り絞って出したと思われる言葉すら「行き過ぎ」と唾棄されてしまう場面も多く見受けられるからです。

確かに、「行き過ぎ」「押し付けすぎ」というケースもあるでしょう。とはいえ、それもひとつの意見。発言した人にとっては生活に関わる言葉かもしれません。
そうしてようやく出てきた声に対し、聞く耳を持つ前にまず「行きすぎでは?」と疑ってしまう風潮が蔓延してしまうのは、小さな声を無視することを、今以上に日常化させることにならないでしょうか。
そもそも、少数派の声なんていうのは悲しいかな、スルーされ続けることが基本になってしまっているのが現状であり、今以上に、強烈な無視を続けて欲しくないのです。

悪意はない、けど…

ただ、それを言うのが、とても難しい…!
こういう事に気づいていない人って、悪意を持って無視してるわけではないと思うんです。それが良いか悪いかは別として、意識してないから「問題」として実感しないんでしょう。
だからこそ、そういう人に会った時「一度立ち止まって考えてみてはどうか」と言いたいのですが、その言い方が…難しい。
私は別にその人を悪者だと言いたいわけではないのです。私だって、無意識な差別はたぶんたくさんしている悪者だから。
そこで「仕方ないよね」と流さず「共に反省していこう」と言いたいのですが、どうしても「あなたは思慮不足でまちがえている」と責め立てているようになりがちで…。

「小さな声」っていう表現って「小さくミュートされてる声」だし、「見えない叫び」っていうのだって、普段見てないからそう感じるのだと思います。そこに気付く態度を持とうよ…と言いたいのです。

話している人も人間だ、ということ

そこに思い至れない理由の一つに「発言主に対してリアリティを持てない」という現実があるような気もします。

例えば、私は高校を中退してるんですが、たまに、そうとは知らない人が雑談の中で、軽口の揶揄として「高校しか出てないような人だとさあ」というようなことを言うんですね。その度に私は密かに「バカって言われてるのかな」とちょっと傷つくんですが、その人はまさかその場に「高校しか出ていない人」がいると思っていないんでしょう。
こう言うことだと思うのです。リアリティって。

でもその一方で、「恵まれない国の子供たち」みたいな、明らかに大変な話には涙できたりもするからさらに考え込んでしまう。なんなんだろうね。リアリティって。空想を超えるのは体験だけど、その体験を超えるのはまた、相手を思いやろうとする想像力なのかな。
…と、尻切れ蜻蛉で今回は終わります。また何か気づいたら書きますね。

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