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止まっている間も生きている

午前中。ツイッターで募集している、解離性障害についてのハッシュタグ「#かいちぐ」 の内容をまとめる作業。
こまめにやればいいのですがなかなか遅くてすみません…。

「かいちぐ」をまとめているとしみじみと、ああ、皆さんそれぞれに頑張って生きているのだなあ、と熱いものが込み上げます。元気をもらう、とかでも同情でもなく、なんだろう…「同志達よ、生きていこう」…という「情」だろうか…。友情、愛情、人情…。生きること、本当にお疲れ様です。いつも大切な話を書いてくれて、ありがとうございます。

選挙を前にし、様々な候補者の主張を見聞きする。
それぞれの候補者や政党をきちんと精査するぞと思いつつ、直球の優生思想や差別感情を目の当たりにするとやりきれない。
こういうことを言う輩がとんでもないのは勿論そうなんだけど、心のどこかで「でもこれに賛同する人もいるんだろうな」という気持ちもあり、普通に気が滅入る。

政治の話をする時どうしても、人間に対して意味とか生産性とか、社会の一部として「役に立つか」みたいな指標が語られることが、本当にしんどいといつも感じている。


人間ひとりが生きていくのに、社会の「良い歯車」であることはそこまで重要なんだろうか。結果的に歯車になるのは全然いいし、立派な歯車になりたいと思う人がいるのも別にいいんだけど、そうではない人はダメ、どんな歯車になるか早く具体的に考えて、みたいなのをドーンと提示されると、それだけで何か気持ちがぎゅっとなってしまう。

「役に立つかどうか」は生きてて良いかという物差しにはならない。まして、それを第三者や政治家が「この人は意味がある/ない」なんて振り分けようとするのは、本当に愚かだと私は思うよ。
意味や目的は、生きる意欲になる。でも、命は意味や目的だけのためにあるわけではない。
役に立つ人も、そうじゃない人も、志を持って進む人も、志を探して迷う人も、朗らかに堂々と、何もなくても生きていてほしい。迷っている間も止まっている間も、生きているんだよ。


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