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正義の所在と力と数

感染者数拡大の中の五輪、それを批判する人、観戦を楽しむ人、医療の逼迫と、カオスな状況が続いていますが、実は私はまだ開会式のゴタゴタ…というか小山田さんの辞任騒動についてモヤモヤと考えています。この間は障害がある人について書いたのですが、さらに深掘りして書いてみることにしました。この間の記事はこれです。

揺らいでいく正しさと弱さ

先に逃げ口上を書いてしまうと、私は「自分の思っていた事は全然正しくなかった/正しくないのかもしれない」という揺らぎの中でこれを書いています。なので、何か意見を問われてもしっかり答えられないと思います。ごめんなさい。

私はなぜ、この話にここまで圧倒されてしまっているのか?思いつく理由はたくさんあります。まず単純に私が小山田さんのファンだからショックだったということ。また、いじめ行為と、被害者と、それを議論する人それぞれに共感する点があり誰も批判する気になれない、ということ(自身が清廉潔白なら、絶対悪を叩くのは簡単なのですが)。
そして、一番大きいのが「いじめは良くない」「被害者の気持ちを考えろ」という真っ当なはずの言葉が、結果的に人格否定に繋がるまでの異常なバッシングに発展したという点でした。
単純に言うと、味方だと思っていた人が過剰な反撃を始めてしまい、加担しない自分が突然「悪」とされたような感覚を受けています。

もちろん、的確な指摘や批判も大いにありましたし、各々の経験がフラッシュバックしやすい内容です。冷静な対応ができない人が多くても仕方ないとも思います。しかし、それを踏まえたとしても、批判でも反論でもない暴言の数は圧倒されるに充分なボリュームでした。
いじめ行為は決して許されるものではありませんし、個人が声をあげることを私はこれまで全面的に肯定してきました。
しかし、数の力が大きな声となり、劣悪な言葉までも動員して物を動かしていく様子は、力や強者の理論と全く同じに見えて「私が描いていたのはこんな景色だったっけ?」と気持ちが揺らいでしまったのです。


私はかつていじめられていた側で、今は障害者です。これまであまり言及してきませんでしたが、解離性障害の理由はいじめによるところが大きいんじゃないかと思っています。
ですから、いじめの傷は一生残るということも、障害者が暴力の対象となる事への怒りもとてもわかります。その怒りが不当なものとは思っていません。
だからこそ、するべきは問題点や今後への課題を考えることであり、加害側を叩き潰すことではないと思うのです。
しかし、そんな理屈では収まらない怒りや悲しさもある事を思うと「ちゃんと考えなよ」なんて軽く言う気にもなれず、そもそも被害の現場にいたわけでも詳細を知っているわけでもない人間が何を考え得るのかと言う疑問もあり、明確な意見を持てないでいます。

曖昧な情報が動かす現実

そして、私がこの騒動に衝撃を受けたもう一つの大きな理由が、メディアや報道のあり方です。暴力行為の責任転嫁や擁護ではなく、これはいじめとは別個の問題として捉えています。
この件に関しては、すでにあちこちで情報ソースの怪しさが指摘されているのですが、私が書くと長いので、きちんとまとめられていたブログを紹介します。

小山田氏の場合、根拠となるのが「雑誌で本人が言ったとされる言葉」でしかないんです。録音も録画もない。しかも、本人が直接書き記した言葉ではない、他人が書いた言葉。ということは「正確さがあやふや」なんです。
「元となる証拠源」とされた「雑誌」まで「省略されたまとめサイトの情報」だったわけですからね。本当にこれはしばらく落ち込みましたよ。「報道として、なんてレベルが低いんだ」と。

この引用で話が終わってしまいそうなんですが、こういう意味でモヤモヤしているのです。
繰り返しますが「小山田さんは悪くない」と言いたいのではありません。信憑性を疑わったり検証を介することなく多くの人が強烈な勢いで批判をし、メディアまで含めて「社会に戻ってくるな」とまで言うような声をあげ、それに対して国が応じてしまう。その構造がOKとされたことに危機感を感じたのです。
批判をするにしても、それを真剣に考えているなら根拠や出来事の正確さを追求することが必要なはずです。一般の人なら仕方がないのかもしれませんが、報道や、あまつさえ国がそのあやふやさの上で動いてしまったというのは、かなりまずいと思っています。

と言いつつ、私だって正直、全てのニュースのソースを調べているわけではありません。なので、こういうふんわりした意見が「世論」「一般的な意見」とされることの怖さを身をもって感じました。

寄り添う事/押し切る事

これらの話を総合して、改めて自分の問題として考えてみます。するとやっぱり、さらに悩んでしまうのです。
「被害者側に寄り添えていないから、私はこうして客観的に考えられているんじゃないか。私も加害者側なんじゃないか?」
「自分にとってはショッキングだった批判の嵐も、本当は『正当な裁き』なのかもしれない。結果として押し切られたのなら、間違っているのは私では?」
「絶対的な過ち(ここではいじめという暴力)の一端がほぼ確定しているなら、それだけで充分なのかも?」
「そもそも自分は、ファンというフィルターがあるじゃん…」などなど…。

正しさというのが一体なんなのか、私はだんだん解らなくなって来ています。ただ、うっすら思うのは、正しさというのは個々人の中にあり、全ての人にとって正しい、というものはないんじゃないかと言う事です。冷静に考えれば、全ての人にとっての正しさを決めるなんていうのは自由とは真逆ですよね。
しかし社会は段々そのようになっているように感じられます。

私は、個人の声が届きやすくなる事は自由に繋がると思っていました。けれども、今見えている景色は自由どころか、他人の声をいかに奪うか、“正しくなさ”をどう排除するか、という陣地争いになっているように見えます。

「そんなの間違えてる」「一般的に許されない」「多くの人が反発している」と言う言葉。
その「間違えてる」は、何を基準にしているのでしょう。一般的とは何ですか?多くの人とはどのくらいの数?数が多い人が一般的で、その人たちと違う意見は間違えていて、排除されても仕方ない??その基準はずっと変わらない物なの?

簡単に答えが出せる話ではありませんが、1つだけはっきり言える事は「強い言葉を大声で叫ぶ人間が力で押し切って勝つ!」と力技が正しさとして通って良いとは、私にはどうしても思えないのです。
それが是とされるのであれば、知性とか品位とか歴史ってなんなんでしょう。それとも、そんなものはもう不要なのでしょうか。

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