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炎上スピードと問題意識について

なんだか色々と炎上が続きますが、皆さんはこれについていけているでしょうか…。
すぐ考え込みがちな自分の気持ちを、まとまらないままに書いてみようと思います。

いじめの話、女性蔑視の話、差別の話。それぞれは炎上して然るべきトピックだと思うのですが、発覚したそばから燃え上がるスピードの速さに最近、怖さを感じています。そこに「熟考」という言葉があまり見えてこないからです。
もちろん、普段からその問題に取り組んでいて「これは早急に声を上げなければ」という人もあるでしょう。しかし、全ての人がそうではありませんよね。これまで関心がなかった人、深く考えてこなかった人は、その内容を考える時間が、もう少しあっても良いように思います。
白黒はっきりつかない話っていっぱいあります。個人的な意見ならなおさら。脊椎反射的に白黒はっきりさせた結果を早急に出すのを「答え」と思って良いのか?と疑問に思っているのです。

自分の話で言うと、私は物事に答えを出すのに時間がかかるタイプです。考えたり色々聞いて「そうなのか、それははっきり声を出さないといけないな」と思うこともあるし、逆に、考えた結果共感できないなと思うこともあります。
これは私の性格によるものなのかもしれませんが、考えるってこういう過程を経ていくものじゃないのでしょうか。
昨今の炎上は、早口と力で押し切って、対話や改善より、相手を言い負かしたり自分の主張を通したり、つまり「論破」することが最終目的になっているように見えます。問題を解決することが目的なら、誰の意見がもっとも優れているかという競争ではなく、対話を経て良い着地点を探す方が有益ではないでしょうか。

さまざまな問題について、小さな意見が取り上げられることを、私は基本的には良いことだと思っています。「いちいち細かい事を言われて窮屈だなあ」とも思いません。しかし、“一つの”正義が力で押しきって空気を作るのはやはりちょっと違うような気がします。

ネットの普及により、良くも悪くも個人的な声が聞こえ、届きやすい時代になりました。しかしそれは、ネットに書き込みをする人たちの声が一般世論であると勘違いしやすいという危険性を孕んでいます。
最近の炎上スピードの速さを見ていると、ネットでのスピード=ネットで即座に意見できる人のスピードを基本として世の中が動いているように思えて怖いです。

先日、ツイッターを見ていたらある記者の方が不必要なほど強い言葉を使っていて「興味を持ってもらうためにはそれが必要だと思います」と書いていて、ちょっとよくわからなくなってしまいました。

ただ、こうして書きながらも「私が遅い/のんびりしているから、こういう生ぬるいことを言えているのかもしれない。これからは早急に答えを出す方が正しい時代なのかな」いうゆらぎもあります。
例えば、自殺しようとしている人がいたとしたら「やめて」と叫んで走って助けにいかなければいけません。「自殺したい気持ちはなんだろうか」と考えていては死んでしまいます。
ただ、状況によっては「とりあえず話を聞く」という選択肢もあるんじゃないでしょうか。

さらにこの例えで言うなら、走って助けにいって、話を聞かずにそのまま帰るような…つまり、炎上騒動で大きな声を出しては次の炎上先へ移ると言うような、その場凌ぎの盛り上がりが目につくのも気になっています。
すぐ鎮火する瞬間的な炎上ならそれは、ただ話題を消費することであって、問題意識を持ったと言うには軽すぎると思いませんか。

あちこちから噴出する、大声や正論や、力の強い言葉で議論されていることの一つ一つの真意を、問題の背景を、私は全ては理解していません。大事なことであるとは思います。けれども「それを言うならこれも」とばかりに次々出てくる意見、正論に、ただ「ちょっと待ってね…」と目を回しているような状態です。

こんなご時世です、イライラしている人も多いんでしょう。私も、イライラではないけど、疲れているのだと思います。
真面目に考えていないようで後ろめたくもありますが、きちんと考えるためにも、一度こういう問題意識から離れることが必要なのかもしれません。

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