ライカの持つ真面目さをどのように崩していくか、ただそれだけが問題だ
瀬戸正人さんの写真展が東京都写真美術館(TOP museum)で開催されている。
シリーズの中にPicnic[1995-2003]という作品がある。代々木公園にいるカップルに声をかけて、その名の通りピクニックをしている姿を収めたものだ。公園の雰囲気は今とそれほど変わらないが、写っている人々に90年代という時代性を感じる。ファッション、メイク、それらから醸し出されるAKBでも欅坂でもなく、まだ”つんく”時代の雰囲気。(よく眺めると70年代や80年代の雰囲気も混在している。公園という舞台装置でのPicnicが時代を超越しタイムレスな境地に至っているのが、この作品の意図するところであり凄さでもある。)
この作品は当初、35mmの一眼レフでその場で声をかけて撮り始めたと瀬戸さんは書いている。しかし初対面のため、とことん断られたらしい。被写体にしてみればプライベートな時間を公園で満喫しているのだ、断られるのも無理はない。そこでカメラを三脚を据えた4X5に変えて、写真館の主風に声をかけていった。するとあっさりと承諾されるようになり、このシリーズが完成した。被写体は瀬戸さんの抱える大きなカメラによって、彼が写真家であることと撮影の本気度を瞬時に認識したのだ。
写真は、撮影者の気持ちよりもカメラそのものの影響を受ける。良くも悪くもカメラに縛られる表現なのだ。(恐ろしい妻を持つ夫が恐妻家になるのと同じ原理であるが、恐妻家ならではの表現ができることはひとつの希望だと言っていい)
写真家として作品を制作する時、カメラの選択でそのシリーズの完成度が決まるといっても大袈裟ではない。瀬戸さんのPicnicシリーズの制作エピソードは、そのようなことを考えさせてくれる。
ではM型ライカはどのようなカメラだろうか。
よく写真家のあいだで言われるは、真面目なカメラだということだ。
恐妻家のあいだでは、タブーのカメラかもしれない。レンズとボディで150万ほどするカメラの購入を、妻は決して許さないし、購入は永久的な決別を意味する。
冗談めいて書いているが、実はこの金額感というのも真面目なカメラになってしまう原因のひとつである。
これからライカカメラの真面目さを2つの視点から紐解いていこう。
そして多くのライカユーザーがこの真面目さの罠に陥り、写真表現を自ら狭めて乏しくしていることも書いていこう。
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