メモ:差別が証明すること


あー。

差別がなされるということそのものが、人は意外と平等というか均等であることの証なんだろう。

たとえば、犬や猫、猿を差別することはない。明らかにヒトよりも能力が低いから。
※こう書くと、「犬や猫を貶めている!」と誤読する人がいるのがインターネットの困ったところなんだけど、それは置いといて先に進む。

差別感情は危機感の裏返しという面もあると考えれば、差別すること自体、相手を恐れて認めているということになるのではないだろうか。

たとえば、「足し算できない民」がいたら、彼らを蔑視することはあまりないのでは? 

差別ではない区別だというのなら、なぜそこに嫌悪感が現れるのか?

犬が嫌いな人は、何かしら犬に対して被害感情がありそうだ。害されることへの恐れが嫌悪感の正体にも思えて、たとえば害されるものは自分の世界観だったりもして。

さっきの、「足し算できない民」が自分の庭を荒らしたら(脅威になったら)どうだろう? 

いや、話がよれた。

差別こそ、相手を認めて脅威を覚えていることの証と考えれば、差別主義者とは臆病者と言い換えられるのかもしれない。そしてまた、たいていの人は臆病者だから、誰にでもその根っ子はあって、そりゃあ明確に意識しないと、差別はなくならないわけだよなあと思う。

差別は恐れが根っこにあると考えると、ウクライナの戦争からこっち、ロシア軍やプーチンを貶めるような言説も納得がいく。これらの貶める言動については、どこか差別的な臭いを感じて、それは将軍様を蔑視する行為も同様に思えるんだけど、要するに、敵を恐れているってことなんだろう。
※こう書くと、彼らを擁護していると誤読する人が出てくるからインターネットは困っちゃうんだけれども、そうじゃないから。

※今回は内容が内容なので、他の方々の写真などをつかうのはやめにしました。

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