もう一度、それでも「自分の言葉」で書く理由
一田憲子さんの著書『暮らしを変える書く力』を読みました。
リンク表示がうまくいっていることから、いかに長いこと書きかけのまま下書きに置いてあったか伝わりますね。
(カード表示の障害、長引いてますなあ)
それはさておき。
「発信する」ことに対して、勇気が湧きそうな文章があったので、今回はそちらをご紹介します。
まず前提として。
リアル書店に行けば、書籍という形でたくさんの知恵に出会えます。
出歩かずともウェブをひらけば、noteだけを見ても、素晴らしいクリエイターさんがたくさんいらっしゃいます。
範囲をnote以外にも広げると、膨大という言葉ですら生ぬるい。
労せずしてたくさんの才能に巡り会えるのが、インターネット全盛の現代です。
正直、脳裏に過ぎることもあります。
私が書かなくてもいいじゃないか、と。
これは呪いの言葉でもあるので「そんなこと無いよ」とすぐさま反論します。
しかしただ言い返すだけでは空疎な精神論です。
なのでこれからは、一田さんの本で読んだ下記のくだりを、力を込めて思い出すことにします。
人は自分の「引き出し」の中にある材料をもとに、事実を把握するのだと続きます。
だから、たとえ同じ経験をしたとしても。
実際に書かれる文章も内容も「私が書かなくてもいい」はあり得ないのです。
たとえば、カフェで美味しいお昼ごはんを食べたことについて書くとします。
そのカフェへ行くにあたって、
1の人なら「家の近くにいいカフェがあって嬉しい」と喜ぶでしょう。
2の人なら駐車場について思うことがあるかも。
3の人は駅やバス停からの道のりを分かりやすく解説したり、行くまでの道のりで気になった他のお店などにも触れるかもしれません。
そして、3の派生型として
・ここに来るために他県からやってきた人
・旅行中にたまたま見かけて立ち寄った人
なんてのもあり得ます。
「どうやってお店へ行ったか」ひとつ取っても、どこを切り取るかの分岐があるわけです。
22頁の文章をもう一度引用すると「事実を事実として書く場合にも、そこには書き手の「ものの見方」が必ず表れ」るんです。
他の誰も書いてくれない、自分だけの感じ方。
だから胸張って書きます。
自信持って思う存分書くんです。
そして、この記事はあくまでも、私の目線で感銘を受けたくだりを抽出して書いたもの。
その過程で選ばなかった箇所に、これを読んでいるあなたにとって、もっと感銘を受ける内容があるかもしれません。
誰かが要約したもので満足するのではなく、時間を費やして実際に読むこと。
体験記で納得するのではなく、実際にやってみること。
「私が書かなくてもいい」の弱気へと立ち向かう術として、大事にしていきたいものです。
※今回のタイトルは、以前書いた記事から引っ張ってきました。
独りよがりにならないためにも必要なことだと感じるので、合わせて胸に刻みたい。
推しの書店で本を購入します📚