愛の視点で見えるもの

ちょっとクサい言い方で好きではないが、あえてこうしか言えないので使うしかない。
例えば元の家族を愛の視点で見る事はとても簡単だ。もう彼らは見るからに愛そのものだ。オレはそういう見方でしかもう見れなくなっている。
今ここのオレの第一位になっている愛の対象だ。
いくら性格が意地悪でも、どんな容姿が悪くても、臭かろうが、汚かろうが関係はないのだと思う。
愛の視点で見ると、こういう事がどうでもいい事のように思える。

オレたちそれぞれの魂の視点も「愛の視点」でモノを見ている。これは、以前体験した〈いちべつ体験〉というので分かった事だ。
大っ嫌いなバスケ部の監督に殴られて怯えている時、オレの魂は感動的なコントラスト体験に協力してくれてありがたいと思い、嬉しくて感動して泣いていたのだ。

で、オレたちの魂は、体と自我を通して、〈怯え〉という感情を喜んで感じていたわけなのだが、この
〈魂〉→〈肉体自我〉→〈対象〉
と一直線に愛が通過するといい気持ちになって、途中で止まると気持ち悪い事になるという事だ。…的な事がバシャール のなんかで見た気がする。

コレを思い出すキッカケは、ロッククライミングで出会ったちょっと嫌な…けっこう嫌なオジサンだった。
なんだか最近のオレはちょっとしたイヤな事が、ものすごいイヤな事に感じるようになってるみたいだ。それ込みの、そういうタイプの人になったのだろう。

ともあれ、魂の立場からの視点では、イヤなオジサンの出現と、愛の視点について気づいちゃう事がセットになってるんだろう。絶対そうだと思う。いろいろとツジツマが合うからだ。

魂の視点と自我の視点を同じにすれば気持ちがいいという事だ。

だからと言って〈オジサンを愛すること〉は絶対無理だ。自我のオレはそりゃそうですよ。
愛の視点か…難しい。

仮に、仮にだよ。あのイヤーなオジサンを〈地球の生き物のひとつ〉という視点で見たならば、… ギリ愛せるかなぁ。
愛の視点って事だ。

あの苦手なオジサンを〈ずっと誰かを批判する人種〉という視点で見たならば、それは愛の視点じゃないって事だ。
気分悪いもんなぁー。ずっと頭にこびりつくくらい気分悪いよなぁー。

オレの中に人をそういう風に人を見る視点があるって事だよなー。

…とオジサンを消化してみる。

オレは最近こうして、湧き出る色んなイヤな事を少しずつ消化している。

消化できるのだと分かった…というか、消化のコツをつかんだ。

コレは〈愛の視点〉になる事で、初めて出来るようになった大きな出来事だ。

〈愛の視点〉になると、未来の選択肢が増える。コレは出来る事が増えていくという事でもあり、〈オジサンのせいで山に行けない〉という一択から、〈どっちでもいい〉という二択に増えるという事で、もしかしたらその先に〈オジサンと一緒に山に行く〉という3つ目の選択肢に広がる可能性もあるという事だ。

知らないオジサンだから、そこまでしたくないけど、そういう事だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?