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他人のために生きるのも、立派でいいじゃない。

久しぶりの投稿です。


今日は、
「他人のために生きるのも、立派でいいじゃない」
というお話です。




他人の言動に落ち込み、哀しみ、
他人の行動に惑わされ、
他人のご機嫌を伺う日々。

そんなストレスを抱えるなら、
いっそのこと自分だけのために生きようか。

周りにかかる迷惑なんて知らない。
自分だけが幸せになるために。



生きづらさをテーマにした本や動画、SNSでバズっている投稿には、
そういった内容のものが増えましたね。


あまりにも情報過多、人間関係過多の時代ですから、
広く浅い人間関係を構築する必要に追われることも多くなり、
人間関係に難のある人があぶりだされてしまったのかなと。

そういった人たちの共感を得ているのだと思います。
(それが悪いことだとは思いません。ただの時代の流れです。)



これらの時代の流れを目の当たりにした時に、
私ももちろん、そのような本、動画、投稿に共感はありつつも、



はたして、
自分だけのために生きようという気には、
どうしてもなれませんでした。






理由は2つあって、
・そもそも今更自分だけのために生きる方法がわからない
・他人のために生きていても、嬉しいこともある

という2点に集約されます。



周りの目ばかり気にして生きてきた自分にとっては、
人生の主人公を自分だと思って生きている実感はありません。



すべての行動には他人がつきまといます。


だから、
いまさら付け焼き刃的なノウハウを実践したところで、
なんとも言えない虚無感に襲われるだけでした。


産まれながらに持っている性質なのかもしれません。




一方で、こうも思います。



他人のために生きていても、わりと嬉しい瞬間はあるなと。



もちろん、よくわからない他人や、
自分の嫌いな他人に費やす労力ほど、
無駄なものはないと思います。


ですが、自分の家族や、恋人に費やす労力は、
無駄ではありません。


むしろ彼らが喜んでくれた時には、
これほどの幸せはないと感じます。


彼らの将来が明るくなる様子を傍で見ている村人Aは、
これ以上ない幸せに包まれています。




要は、
他人のために生きることは、使いようだと思います。


誰か知らない他人(たにん)に労力を割いても
幸せになんてなれないけれど、


自分の大切な他人(ひと)に労力を割くことは、
幸せに繋がることが多いんです。

少なくともわたしは、ですが。



「他人のために生きるのも、立派でいいじゃない」

タイトルの「他人」の読み方は、「ひと」です。



ひとのために生きている人は、
ひとの幸せを願っているんですから、
立派ですよ。



おわり。

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