【SS】ただそれだけの話


「すいません、隣いいですか?」

 そう声をかけられたのは、こじんまりしている個人経営の居酒屋のカウンターだった。
 梨沙は、その居酒屋が気に入っていて、仕事の帰りによく通っていた。定位置は右端だった。あまり、よくない位置どりだとはわかっていたけれど、どうしたって端っこが落ち着くのだから仕方あるまいし、このお店はそこまでは混まない。

 安くて、美味しくて、日本酒の種類が多い。夫婦で経営していて、時折話しかけてくるものの、過干渉ではなく、通ってくる客もそこまで煩いのはいない。

 あたりをさっと見渡すと、確かに狭い店内は人が多かった。テーブル席は埋まっていたし、カウンターも六つあるうちの三つは埋まっていて、その三つもこういってはなんだが、身体の大きい男が占拠していた。確かに隣に座ると、窮屈そうだ。
 視線を上げると、その声の主は細身の美人で、人見知りのようだった。
 梨沙に話しかけるのもいっぱいいっぱいといった感じで、何より腕時計を右手にしていたから一も二もなく頷いた。

「こういうところ、よく来るんですか?」
「いえ、あまり。でも、たまには慣れないことも頑張ってみようと思って」
 へえ、そうなんですか、と返事をすると、彼女ははにかんだ。確かに、見たことはないし、どう見ても慣れていなさそうな立ち振る舞いだった。
 おかみさんに、何にします? と聞かれたので、咄嗟に生、と答えたようだった。
「はい、生とつきだしね〜」
 すぐさま、生とつきだしの三種盛りが彼女の目の前に置かれた。おかみさんは、注文他に決まったら教えてね、とその場を後にしてしまった。
「おすすめ、あります?」
「そうですね……」
 聞かれるがままに、メニュー表を見ていくつかピックアップする。どれもこれも美味しいから、つい迷ってしまう。なめろうだって、銀杏揚げだって、ボリュームのある串物だって、フワッフワに仕上げたオムレツだって美味しい。
 ただ、統一性がないものだから、彼女はとりとめのない店だと思っているかもしれないけれど。
 あまり話す気もないし、ただの相席だったはずと思っていたのに、つい饒舌になってしまった。そのことを恥ずかしく思って、咳払いをする。
「このお店のこと、好きなんですね」
「まあ、通っていれば愛着ぐらいは湧きますよ」
「愛着ぐらいって素直じゃないねぇ」
 おかみさんが聞いていたのか、颯爽とツッコミを入れるから、ますます居心地が悪くなった。
 決まったかい? と聞かれた彼女は、じゃあ、とさっき梨沙が言ったもののいくつかを頼んだ。

「折角一人で飲んでたのにすいません、」
「いえ……どうせ、帰っても一人なので」
 いや一人は好きだからいいのだけど、と付け足そうとしたが、寂しい人間だと思われただろうか。口元に掠めた笑みを深読みしてしまいそうになって、目を背けた。
 やっぱり、人付き合いは苦手だ。向こうのほうが人見知りだと思ったからどうにかなりそうだと思っていたのに、こんなに会話のラリーが続くとは思っていなかった。

 もう今日はさっさと退散しようかと。けれど、今日こそはとさっき頼んだ釜飯がまだ時間がかかるということらしい。
 ここの釜飯は、たまにしかメニューに乗らない上に、ふっくらした新米で作っていて、味もしっかりしているから美味しいのだ。あの、湯気には多幸感を具現化したものだと思う。
 そんなことに思考を逃しながら、ちびちびとお猪口の中身を舐めるようにしながら、まだ片付かないつきだしを箸でつまみながら食べようとした時だった。
「いただきます、」
 同じタイミングで彼女も、それに端をつけようとしたのだろう。その瞬間、ごつ、と強めに肘がぶつかった。
「……あなた、」
「あ、すいません。小さくなって食べるんで」
「いや、でも腕時計、」
 そう、腕時計が右手についていたから、ここに座ることをよしとしたのに。なんと、思っていたのと利き手が逆だったのだ。
「あぁ、これ」
 聞けば、利き手がどうこうではなく改札で手間取るのが嫌で右手につけていたということらしい。
「すいません、よく勘違いされるんですよね」
 あっけらかんと言って見せる様子に、なんだそれ、と脱力する。
 でも、利き手が違っていたら、断っていただろうか、あの場面では断りづらかった、とさっきまでのやり取りを回想する。
 いやでも、席の入れ替えぐらいはしていたかもしれない。左利きというのは、羨ましがられることもあるが、基本的には厄介なのだ。
 彼女を見ると、すいません、と恐縮しっぱなしで、わざとなのかそうでないのか勘繰るのがバカらしくすら感じ、これまた身体から力が抜けて、思わず笑ってしまった。そのタイミングで釜飯が二人の間に届く。
 はあ、と肺の空気を押しつぶすようにして出して、気持ちを切り替えた。今更追い出すわけにもいくまい。だったら、楽しんでやろうじゃないか。
 ふ、と彼女を覗き込んだ。
「……食べますか? ここの、美味しいんですよ」
「え、いいんですか?」
「一人分にしてはちょっと多いから。その代わり、さっき頼んでた串盛り一本ください」
「もちろんです!」

 やった、という彼女の言葉が少し大きく響く。これは、間違いなく嘘ではないような気がした。

 でも、やっぱりひっかかる。
 腕時計が利き手ではない方につけていて、よく勘違いされるということは、彼女も誰かの利き手を気にする習慣があったということではなかっただろうか。
 じゃあ、私、盛りますね、という彼女の横顔を見て、もしかして策士なのかもしれないな、と思ったが、まあ、そんな夜もあってもいいかもしれない、と口元が小さく緩んだ。
「おかみさん、同じのもう一合お願い」
 はいよ、と威勢の良い返事が聞こえてくるから、お猪口もう一個追加で、とついでに頼んだ。
 もし何かあったのなら、酔っていたから、と言い訳をすればいい。ここは居酒屋、お酒を飲む場所なのだから。

 ただ、それだけの話だ。

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