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桃源枕 ③ Cの話

「松阪牛食べたい!」

桃介とうすけがそう言った時、僕は顔をしかめるしかできなかった。
「どこで覚えてきたの?松阪牛なんて」
今や、松阪牛どころか、牛の存在が幻だ。親世代はみんな牛肉を食べたことがあるらしいが、牛のゲップが温暖化を促進させるとされてから、あれよあれよとその数を減らされ、ついには幻の動物となってしまった。
僕は、牛の話を聞くだけでいつもちょっと切ない。子牛が売られるドナドナの歌が切ないのも、牛がいるからこそである。可愛い子牛、君たちは何処へ。

牛だけではない。飼料高騰につき、牛どころか豚も鶏も卵も高級食材である。
唐揚げ、焼き鳥、とんかつ、ゆで卵。市民の味方、みんな大好き動物性タンパク質。
結婚前は、妻とよく外食ををした。
思えばあれが最後の楽園だったかもしれない。
桃介を妊娠した頃から、妻は遺伝子操作されたものを食べたくないと言い始めた。
もちろん、桃介が6歳になった今も、完璧な食材探しに余念がない。

正直、食料不足のこのご時世、遺伝子操作で人間は生き残ってきたと言っていい。
異常気象に次ぐ異常気象、干ばつ、集中豪雨、それから謎のウイルスが次々と出現するこの地球上で、農家、酪農家、養鶏農家が次々根を上げたとして、誰が責められようか?
生き残る道は、少しの栄養と少しの土地で生きていける動植物を集めて、あれやこれやと遺伝子を組み替え、極度に成長を早め、繁殖を早めること以外、どうしろというのだろう。

しかし妻はいう。
そういうわけのわからないものを口に入れるということは、私たちの遺伝子に、ひいては子供たちの遺伝子に傷がつくと。
そういう理論はもちろんわかる。
僕だって、出来るものなら、桃介を草原に解き放ち、ニワトリや羊なんかと戯れさせながら、手作り大豆を大鍋で煮て豆乳を作って暮らしたい。
時々、心が疲れた子どもや、体の弱い子どもなんかを受け入れて「どうしてじゃがいもは揚げ料理になるとジャンク呼ばわりなの?どうしてカップラーメンに健康的なドリンクやサラダを添えると負けた気持ちになるの?」なんて質問に、口笛を吹きながら風に囁くように答えるのもやぶさかではないと思っている。

しかし、実際に田舎暮らしを提案すると、妻は必ず渋い顔をしていうのだ。
「桃介の教育環境が整っていないと…」
妻のいう教育環境とは、それは質のいい塾であったり、質の良いピアノ教室であったり、質の良いスポーツクラブであったり、である。
そういったわけで、妻は、質のいい食事と質のいい教育を調べることにも余念がないわけであるが、僕は問いたい。質のいい夫婦関係とは。


「松阪牛が食べたい!」
だから桃介がそう言った時、誕生日であるのだから、出来るだけ希望は叶えてあげたいと思いつつも顔をしかめることしかできなかった。
「どこで覚えてきたの?桃介、牛さん知ってるの?すごいねぇ、物知りだねぇ」
僕は、桃介を褒めながら視線を妻の方へやる。

すると、妻が桃介に対して「うん」と頷いた。食べさせてやるの「うん」ではなく「上手に言えたわよ!」の「うん」にそれは見えた。
「え、なになに?松阪牛が食べられるの?そういう店があったの?え、それ本物?」
我が家の台所事情はというと、遺伝子操作なしにこだわるあまり、買う野菜がいちいち全て高値である。まして、遺伝子操作されまくっている動物性タンパク質はほぼお目にかかれず、一見とても質素に見える食卓であるにもかかわらず、なかなかのエンゲル係数だ。
そのエンゲル係数に幻の牛ときたら、それはもう火の車の食卓に対するリーサル・ウェポン、流石に、小学校入学のお祝いを兼ねての誕生祝いであったとしても、やりすぎ感が否めない。

「違うの、これ…見て…!」
そう言って、興奮に目をギラつかせている妻の手には一枚のチラシがあった。
『唐揚げ大食い大会!優勝者には、幻の松阪牛(100g)!!』

妻はもちろん、松阪牛に興奮しているのだが、僕は唐揚げに興奮した。
例え優勝できなかったにせよ、お腹いっぱい唐揚げを食べられるのだ。もうここ何年と食卓に上がらない動物性タンパク質に僕は恋焦がれていた。
遺伝子組み替えされていてもいい。君たちがその生を謳歌しているのなら、僕はそれを食らいたい。

「実はもう参加申し込みをしているの!」
という妻の言葉に被せるように
「絶対優勝して見せるよ!」
僕たち夫婦は、久しぶりに桃介を介さずに見つめ合い、両の手をしっかり握った状態で頷き合った。


ところでだ。ここ何年もベジタリアンのような生活をしている僕が優勝できるなどとは、あまりにも夢物語だ。なぜあんなにも自信満々に答えてしまったのか、いくら久しぶりに唐揚げが食べたかったにせよ、無責任が過ぎるだろう。
僕は、参加者の列に並びながら、隣の巨漢を見てすでに戦意喪失していた。
僕がやろうとしていることは、細い傘袋を買い物袋に利用しようとしているようなものだ、せめてネギとかニラの大食いだったらあるいは…。そんな思いも駆け巡る。
そうこう考えている間に、エントリーナンバー12番のゼッケンをつけられ、気づくと僕は会場にいた。客席で、妻が桃介と真剣な表情で手を振っていて、僕は力無く手を振りかえす。

まぁ、ダメだったとしても、特にリスクがあるわけではない。多少がっかりされるだろうが、家庭崩壊するわけじゃなし、とにかく久しぶりの唐揚げを味わおう。
やけに騒がしいMCが、調理前の鶏肉を持ち上げて銘柄を叫んでいたが、緊張している僕の耳にうまく入らなかった。

「それではスタートです!」平皿に、おおよそ20個程度の唐揚げが運ばれてきた。
香ばしい匂いに生唾が出る。
さあ!と箸を伸ばすと、キツネ色に揚がったそれが一斉に僕を見た。
いや、何かの比喩ではなく、本当に僕を見た。
「いいかい?僕たちは遺伝子操作をされていない。それなのに、大食い大会で消費されるなんて由々しき事態!味わえ!君ならその意味がわかるだろう?ちゃんと味わえ!いいかい?味わうんだ!」
僕は目を疑う。唐揚げが味わえと訴えている。そっちの方が由々しき事態だ、食べづらい。
しかし、彼らは言う。「味わえ!ちゃんと味わえ!」

それで僕は、彼らの言うとおり、目を閉じてまず一口頬張った。
熱い肉汁がカリッという音と共に歯の隙間から踊り出す。その熱さに一旦肉を口の中で転がし、そのあと勇気を持ってもう一度かみしめる。
…ジューシー!!僕の人生で幾度となく出会ってきたジューシーたちの記憶が一斉に吹き飛ぶ。口の中で「プールみたい!」と舌に隠れていた小人がはしゃいでいるようだ。
その小人もろとも飲み込む。鼻の奥で「最高だぜ!」とはしゃぐ小人の声が漏れ聞こえてきそうだ。それは、ウォータースライダーにはしゃぐ桃介を彷彿とさせる爆発的喜びだった。

ああ唐揚げ様…命をありがとう…!

感激のあまり、涙ぐむ僕を、MCが茶化す。「12番どうしたー!?美味さなのか、それともこの量になのか、すでに涙ぐんでいるー!!」
しかし僕は気にしない。ひとつひとつ、確かめるように咀嚼を繰り返し、溢れ出る肉汁に感謝をし、次々と飲み込んでいく。
20個を食べ終わった頃隣を見ると、巨漢が汗を流し、目を地走らせて唐揚げを丸呑みし、3皿目に突入しようというところだった。

不思議なことに、20個食べた後でも僕には、まだ感動が続いていた。
2皿目の唐揚げたちが、また僕を見た。
「いいか!味わえ。僕たちは、遺伝子操作をされていない!」
鳥にもそういったプライドがあるのだろうか?
遺伝子を組み替えられ、瞬く間に成長していく同じ種族を悲しみを持って見つつ、同じ食べられるものとしての正しき生き様を見せつけようと?
僕は、人間の身勝手さと、自分達が生きていくために抗えなかった領域に踏み込んでいったことを詫びながら、ひとつひとつを噛み締めていく。
それは、感謝であり、懺悔でもあり、無の境地でもある。
「12番!!全くスピードが変わらないーー!!ついに11皿目に突入だー!!」
どよめきが聞こえ出した頃、誰かが僕の右手を掴んで持ち上げた。

「パパすごい!!トロフィーだって!!松阪牛だって!!」
桃介が、松阪牛に感極まっているが、今、僕の膝で暴れないでほしい。
どうして優勝できたかさっぱりわからないが、とにかくまだ胃袋に唐揚げ様たちは鎮座している。

「パパ、すごかったね。あんなに食べられるとは思わなかった」
妻が真っ直ぐに僕を見て微笑んだ。
「やっぱり、遺伝子組み換えじゃない鶏肉は美味しかったでしょう?」
妻の目は、柔らかな三日月のようになっている。ここ最近の、僕を見つめる瞳で、最も優しげなものだった。
「知ってたの?今回の鶏肉が遺伝子組み替えなしって」
「当たり前じゃない!そうじゃなかったら参加させないわよ。でも、信じられない。あんなゴミ袋に放り込むような食べ方をするような大会で、正当な肉を使うなんて」
妻は、多分隣の巨漢の食べ方を思い出しているようだった。
それからまた、僕に柔らかな視線を向ける。
「あなたは、本当に美しい食べ方だった。鶏肉に敬意が感じられたわ」

まさか、鶏肉たちが一斉に僕に「味わえ!」と訴えていたとは思うまい。
「本当に美味しい唐揚げだったんだよ。君にも、桃介にも食べさせてあげたかったなぁ」
僕がそういうと、妻は、三日月のような瞳を潤ませるように言う。
「いいの、いいの。だってほら、松阪牛だよ!100gとはいえ、本物!」
妻は、優勝と書かれた熨斗の箱をうやうやしく持ち上げてくるりと回る。
「桃介、今日のお誕生会、これ食べようね!」

そうだった。今日が誕生会だった。
僕は、自分のお腹をそっと撫でる。どう考えても、今日はこれ以上、もう一口も食べられそうにない。
「申し訳ないけど、パパはもう今日はケーキもサラダも何も食べられない。松阪牛も…残念だけど、君たちで食べるといいよ」
いや、本当は、松阪牛は食べたい。しかし、一口でも食べたら、松阪牛どころか、唐揚げ様も僕の血肉になる前に出てしまう可能性が高い。
ああ、なぜ松阪牛の入手方法が、大食い大会なのだろう。肉を食らわせ、そして肝心の肉は食えないとは、なんたる罠…!!

すると、苦悶している僕に、妻はカラリと笑って抱きついてきた。
「え、本当!?やったー!100グラムしかないから嬉しい!ありがとう、パパ大好き!」
牛が食卓にあるのが奇跡なのか。
それとも、妻が僕に「大好き」ということが奇跡なのか。
朝から続く、奇跡に僕はクラリとなった。
そうだ、妻が僕に触れてきたのと、最後に食卓に肉が並んだのは、どれぐらい前なのだろう。


その夜だった。
ようやく胃袋も人心地ついてきた。
松阪牛は、本当に妻と桃介だけで食べ、その喜びに2人は大興奮だった。
「最高の誕生日だよ!パパ!」
「本当に美味しいよ!パパ!」
牛と同じぐらいに家族が僕を絶賛してくれた。
その余韻に浸って、ベッドに横になっていると、妻が僕の腕に触れた。
「これ、本当にひと口分だけだけど、今なら食べれそう?」

そこには、小皿にちんまりと置かれた松阪牛があって、それをつまんで妻が僕の口にそっと運ぶ。
僕は、思わずその指ごと松阪牛を食べた。
昼間のように、口の中の小人がはしゃぎ出すかと思ったが、それより僕が咥えた指の方が美味しく感じて、僕は思わず君の名を呼ぶ。
「桃子…」


「ねぇ、これが全部夢だったらどうする?松阪牛も、この家族も」
横たわっていた君が、不意に起き上がって、僕の頭を膝にのせながら、おかしそうに言った。
唐揚げが僕に話しかけてきたんだ。大食いなんてやったことのない僕が優勝して、家族から絶賛された。確かに夢であっても全然おかしくない。
「確かに夢かもしれないなぁ」と笑って答える。
すると、桃子がやや真剣な面持ちになってさらに続けた。
「あのね、3大欲求を全てコントロールしようとしている研究があるの。あなたその実験台になってる。もちろんあなたには拒否権があるんだけど」
「ああ、じゃあ、今まさに、僕は完全に満たされているってわけだ」
ゆっくり味わうように、今日の食卓を思い出す。
「仮に夢だったとしても、僕の答えは変わらない。僕はこれからもこの家族を、桃子を、愛し続けていくよ」
愛するなんて単語を使ったことのない僕は、まるで台本を読むように答えた。
すると桃子は、僕の髪をくしゃくしゃっと撫で回し
「やっと結婚する前の頃に戻れたー!」とまるで出会った時のような顔ではしゃいだ。

「私、桃介にいっぱいいっぱいだったし、気づいたら、お互い、ママパパって呼び合っていたでしょう?本当は、もっとちゃんと夫婦でいたかったのに、全部必死になってて忘れてた。たまにはみんなで美味しいお肉も食べて、楽しもうね!」

三日月のような瞳。
そうだ、その瞳が僕に向けられているのを、僕はもう何年も見ていなかった。
桃介に対する嫉妬みたいな気がして、僕も意地になっていたんだ。
その瞳が僕を見つめるてくれるのなら、全部夢で構わない。
君の瞳にそっくりな桃介までもが夢であるなら、僕はきっと目覚めない。

油断すると食道から上がってくる唐揚げの匂いに包まれながら、夢ならもう少し消化が早くてもいいのではないだろうかと思う。
それから次は、ぜひ、松阪牛を心ゆくまで味わいたいと切に祈りながら、僕は桃子の目元にそっと唇を押し当てる。



PEACHの話へ続く



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