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桃源枕 ① Aの話

あらすじ
2053年 牛は絶滅危惧種の世界。
人は、三大欲求を思いのまま満たすプロジェクトを進め始める。
快適な睡眠、美味しい食事、理想のパートナーとの生活。睡眠中の夢をコントロールすることで、完璧な幸せを手に入れようとするが、そこには別の目的もあった。
夢をコントロールすることで、人は桃源郷へ行くことが出来るのか?


松阪牛が食べたい。

桃子さんが突如そう叫んだ時も僕は大して驚かなかった。
「また何か思いついたんですか?」
バファリンの半分はやさしさで出来ているいるなら、僕の片思いの半分は桃子さんへの好奇心で出来ている。もちろんもう半分は苦い酸っぱい成分で、それを甘い糖衣で包ませて、いつか桃子さんの口に放り込もうと日々企んではいるものの、桃子さんときたら、さっき叫んだみたいに、突如松阪牛が食べたいという日があれば、ヨガマスターになるだとか、睡眠欲を制圧したいだとかを突然言い出し、僕という片思いの塊に全く気がつく様子がない。
ちなみに、桃子さん以外の人間は、僕が桃子さんが好きすぎて、ヨガマスターになるため日夜シャバーサナを極めたり、睡眠欲を制圧するため若干死の淵をのぞいたりしていることを知っているので、今回の松阪牛の件に関してはハードルが低すぎるとの見解を示している。

「またって何。今のは純粋に欲求の話なんだけど」
今現在、桃子さんが夢中になっているのは、香りと脳と語学であって、例えば平安時代、紙にお香を焚きしめた香文などがあるのだが、それがどの程度印象操作を行えるかというもので、文章のやり取りが脳に直接届くようにとって変わった今、受け手の感度が非常に下がっていることを懸念しているということを、昨日聞かされたばかりだった。平安時代から現代までのすっ飛ばし方が、トイレットペーパーを無駄に回転させる音に似て聞こえる。
「いや、松阪牛の香りで印象操作をするのかと」
「ああ、昨日の話しね。確かに松阪牛の香り付きはいいね。でも、松阪牛と神戸牛を嗅ぎ分けられる人なんている?だったら焼肉の香りって言う」
「ああ、それは親切ですね」とにかく、彼女の言うことは絶対だ。

僕たちは、枕開発の研究員をしている。
桃子さんは僕の上司であり主任であり、この研究においては一目置かれているという人物だ。
人間の3大欲求の中の睡眠をコントロール出来れば、残り2つだけでなく人生をコントロール出来るというこの研究では、睡眠薬、睡眠導入剤、整腸剤などの研究を経て、最終的に、枕によって睡眠中の脳波をコントロールするのが、体にも一番負担がないという結論に達して、このラボが作られた。

それで彼女は日々、人間の欲求だとか、思考と体の関係だとか、読書と睡眠導入の脳波だとか、ヨガだとかスピリチュアルだとか香の成分だとか、知らない人が聞けばなんの脈絡なのだ?と思うことも、大概は枕の開発についての思考につながっている。
睡眠欲の制圧については、幾分、枕の感度が上がりすぎたため、3ヶ月目覚めなくなってしまった研究員が出てしまい、逆の発想として睡眠を欲しない研究も進めたいと言い出し、1ヶ月間不眠不休、そうまさに不眠を体験し、危うく永遠の眠りにつくところだったのが僕だった。その時、桃子さんがなぜか膝枕をしてくれて「もう眠っていいよ」と言ったものだから、本気でこのまま永遠の眠りについてもいいと思ったが、目覚めたらいろんな機械が身体中についていて、桃子さんの膝枕が夢なのか現実なのか、未だ確認が出来ていない。

「松阪牛食べたいんですか?」
僕は確認も兼ねて質問する。
「うん、昨日昔の小説読んで。ほら、本物の牛って美味しいんでしょ」
2050年以降、牛は絶滅危惧種に指定されてほぼ食べられなくなった。地球温暖化だとかエネルギー問題、飼料不足、理由は様々だが、追い討ちをかけるように政府が牛を潰せと命じたことにより、酪農家がいなくなった。僕たちが今食べている焼肉は高級食材の豚肉か鶏肉、または限りなく肉に食感を似せた植物性タンパク質で、まぁ、ほぼこれを食べて育っているから、親が時々言う「本物のカルビが恋しい」という欲求にはいまいちピンときていない。
さりとて、牛が全滅したわけではなく、そこそこに法外じゃないかという値段を払えば、今でも松阪牛や神戸牛、米沢牛など、手に入らないわけではない。法外じゃないかという値段だけれど。

それでも僕は生唾を飲み込む。牛肉の方にじゃなく、桃子さんと松阪牛を食べるというシチュエーションに。
「一緒にどうですか?」法外な値段と言っても、研究で日々稼いでるお金をほぼ使っていないのだから、桃子さんと牛が食べられるなら、ひと月分ぐらいの値段は痛くも痒くもない、いざ牛を、とそう言いかけたら桃子さんの方が先に言った。
「一緒に食べに行かない?いろいろ無理させたお礼もしたいし」
桃子さんのためなら、もう3ヶ月ぐらい眠らない実験をしてもいいし、平安時代まで戻って、恋文に焼肉の香りを焚きしめるタイムトラベラーになってもいい僕は、日本にわずかに残る酪農家の皆様と、松阪牛の遺伝子を残していた先人にも謝辞を述べる。


「ところで、君は今、本当に自分が目覚めていると思う?」
牛を、人生でおそらく2回目の牛を、一度目はいつだっただろうかと思いながら咀嚼していると、桃子さんは「牛より豚が好きかもしれない」とにべもなく言った後に言った。
確かに、豚肉も猛烈に美味しいですけど、牛だと思うとそれだけで感慨深くてより一層猛烈二乗の味わい深さじゃないですかと思ったが、あえてそれは言わない。
「え、僕は目覚めてないんですか?」
溢れかえる肉汁が喉の奥へ流れ込んでいく。これが夢だとすると、もう人生全て夢でいいのでは?というか、主軸が夢なのだから、それはもう夢でなく本線だ。
「そう、本線。私が膝枕をしたあの日、君は眠ってそれから実は目覚めていない。それで、人生の主軸が変わってしまった。君は現実世界では永遠に眠っているけど、君の主軸の日常は動いている。50年ぐらい前にそんな映画もあったみたいだけど、人類があの枕を使って眠った場合、主軸が各々の夢になる。つまり己の欲求で人生はコントロール可能になってる。夢だしね。なんなら24時間起きていることも可能、そもそも寝てるんだし。でも恐ろしいもので、体験した世界や環境、思い込みは外せない。例えば、もう牛肉は滅多に食べられない、とかもね」
「夢だからって、全てコントロールできるとは限らないですよね?」

『本線』という単語を桃子さんが使ったことが偶然なのか、それとも本当に今、僕は夢を見ているのか。
「夢はね、脳内の整理整頓なわけでしょ。経験や学習したことを整理してる。整理術さえマスターできれば、夢はコントロールが可能なのよ。逆に経験も学習もしていない赤ちゃんを眠らせたら、夢を見る範囲が限られてしまう。コントロールする以前の問題。つまり、夢主軸の人生はありえない」

私たちの作る枕の研究って、穏やかに人類を終わらせているようなものなのよ。

真っ直ぐに僕を見つめた後に、桃子さんは三日月のような目で笑う。
「日夜励んで人類を滅亡させている。しかも多幸感と共に。私たち何様なのかしら」

だとしたら、僕のこの恋心はなんなのだろう?そもそも男女が惹かれ合うということの本来の目的は子孫を残すために他ならないのでは?
欲求をコントロール出来るなら、まずこの苦さと切なさと性的欲求を切り離した方が手っ取り早く幸せに人類を終わらせられるんじゃないだろうか。
「快楽や恋愛感情、愛情の元になるものはある程度残さないと、生きることそのものに疑問を持ってしまうのよ。あくまでも究極の幸せを追求しているのがこの研究なんだから」

じゃあ僕は穏やかな終焉に向かっているのだろうか。
この片思いを抱えたままで?
夢が主軸だと言われているのに、コントロールもできないままで。
「ええと。そうなってくると、僕のするべきことは決まってきます。あなたに好きだと伝えて、それにあなたがイエスと答えてくれて、将来を約束しあって抱き合って、子供に囲まれ、何一つ案ずることのない未来をコントロール出来れば、現実世界が穏やかに終焉していてもそれはそれで」

あまりにも明確に夢だと確信してしまったからなのだろうか。
まるっと3年、一度たりとも伝えられなかった想いのたけを、桃子さん以外の全員にバレている秘めたる想いを、まるで台本でも読むかのように僕は伝えた。

すると桃子さんは手を叩いた。まるでバースデーを祝うように。
「やっと告白されましたー!」
なぜか店員が花火を散らしたケーキを持ってくる。
「おめでとうございます!」

桃子さん以外の全員にバレている僕の想いは、実は(当然)桃子さんにもバレていて、そして幾度にも渡って桃子さんもその気があるそぶりをしているというのも、僕以外の全員が知っているらしかった。なんなら「付き合って」と言ってくれたこともあるらしいのだが、どういうわけか、僕はヨガマスターへの道のり付き合うと解釈したとのことだった。
「お前の頭の中は、眠りと夢の研究と『桃子さんへの片想い・・・』という思考回路でしか出来ていない」
同僚が見るに見かねて、桃子さんに台本を用意したとのことだが、果たしてそんなに思い通りにことが運ぶものなのか。

僕はまだ現実を疑っている。
だけど、一度手に入れた幸せのコントロールを僕は怠らないことにしよう。
僕の横で寝息を立てる桃子さんは、紛れもなくきちんと寝て起きるという日常を送っている。そして僕に「愛している」と時々言ってくれるのだから、もうそれが夢であったとしたら起きてなるものかという気すらする。

牛はやっぱり相変わらず法外な値段のままなのだけれど。



Bの話へ続く

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