日記(闇落ちと細野晴臣様)
ここ数日、暗闇を這うような精神状態だったのだけれど、まあ、それは何も特別なことではなく、ある意味、定期的な儀式みたいなもので。友人にLINEであれこれつぶやいて心配されているうちに、すっかり回復していた。はた迷惑なやつだ。
落ち込んで回復することは、新しく自分を再生させるみたいだなと、思う。
最近私は坂本龍一さんへの追悼の思いから、YMOをはじめお三方の音楽、YouTubeにアップされた1980年前後に彼らが出演していたラジオ番組の音源をかたっぱしから聴いていた。周辺の音楽やカルチャーに関心をもって調べていくと、さらに興味が増して、自分がこれまで出会っていなかったモノ・ヒトに触れて、感動する。そんなことを繰り返していたら、生きる希望をようやく取り戻し、絶版の写真集やツアーパンフのオークションを眺めたり、図書館で関連本を借りて読み漁ったり、以前の私よりずいぶんと元気になった。人間って単純だな。私が……か。
こんなことを書くと頑固な年寄りみたいで嫌なんだけど、近頃、「時代」というものにどこかのりきれなくて、気持ちがどんどんさめていた。とはいえ、テクノロジーの恩恵を受けることは嫌いじゃないし、なんならChatGPTの力だって借りている。新しい時代に生まれるコンテンツ・作り手、みたいなものにも大いに興味があるし。だけど、たまに心からつまらないと思ってしまうのだ。
それは自分の人生に対して、なのかもしれない。
人生の後悔ならたくさんあるけれど、その場、その場でやりたいことはやり切ったと思うし、そこに対して力が及ばないこともたくさんあったけれど、過去は変えられない。逆にうまくいきすぎていたら、今の私はいないしね。それにやってみたいと思っていた仕事にも一通りチャレンジできたし、まあ、私の実力で、よくここまで頑張ったと思うよ。(これは自分自身に言い聞かせている言葉)
だから、次の一歩みたいなものが難しい。
昔の自分みたいにがむしゃらに頑張る、みたいなことはさすがにできないし、暮らしの幸福を支えるために稼げる額と必要な額みたいなものは、なんとなくわかってきた。今の私が選んでいることは、さまざまな外的・内的影響を考慮した上での最適解であるとも感じている。だけど、なにかパズルのピーズが足りないと感じてしまう瞬間がある。
目標とか、目的とか、そういうものも見えにくい。誰かに認められたいともあまり思わない。もちろん認めてもらえるならそれはありがたいことだけど、そもそも認められることが目的ではないし、他人は自分が思ってほしいように自分を思うわけではないしね。
なんだかつらつらと暗い話になってきたんだけど、つまりは薄暗い気持ちをずっと抱えていた私は細野晴臣さんの本を読んでいて、すごく救われたという話。前置きが長かった。
かつての細野さんはYMOをやるか、出家するか、迷っていたらしいのだが、そのときのことをこう話している。
なんだか妙にしみちゃったね。つまりは私、流されたいんだな。そんな自分を肯定できなくて、ずっと焦っていた。でも、流されたって、いいんじゃない。どこに向かうかを楽しんだらいい。今、一生懸命手を動かした先に、未来ってあるもんだしねって。
そして「ぼくはいつもぶれている」と語る細野さんが、「安定」と「ブレ」に対してこう話している。
「揺れるのが宇宙の法則だから。ぶれっていうのは法則」。だからぶれないでいるっていうのは、無理をしないとできないんだろうって。
そうだな。ぶれないってことは頑なになりやすい。ゆらゆら揺れながら、その時その時の最適な位置を見つけていけばいいのかもしれない。
ならば、私も頑なにならず、もっと自由に、楽しく、流れに逆らわず生きていくことができたらいい。あまのじゃくで少々反骨精神が強めなので。もっと楽にね、と自分に言い聞かせながら。
生きているだけで傷だらけだな、と思う。それは自分から巻き込まれにいくからなんだろうけれど。
人生は大いなる暇つぶし。そして壮大な実験の場である。最近そんなことをつくづく感じる日々である。
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